鏡作坐天照御魂神社
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   【延喜式神名帳】鏡作坐天照御魂神社(大 月次/新嘗)大和国 城下郡鎮座

   【現社名】鏡作坐天照御魂神社
   【住所】奈良県磯城郡田原本町八尾816
       北緯34度33分40秒,東経135度47分38秒
   【祭神】天照国照彦天火明命 石凝姥命 天糠戸命
       中央に天照国照日子火明命、向つて右は石凝姥命、向つて左は天児屋根命
       『磯城郡誌』は「中座は天照大神 左座は天糠戸神 右座石凝姥命」

   【例祭】10月10・11日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇6年9月3日此地に於て日御象の鏡を改鋳し、天照大神の御魂となす
       神護景雲4年(770)鏡作神十八戸大和二戸伊豆十六戸『新抄勅格符抄』
       貞観元年(859)正月27日従五位下より従五位上『三代実録』
       明治6年(1873)4月郷社
       昭和11年(1936)県社

   【関係氏族】鏡作部
   【鎮座地】この地が当初からの鎮座の地

   【祭祀対象】鏡作部が遠祖(石凝姥命)を氏神として開いた神社である
   【祭祀】江戸時代は、麻気神(天糠戸命)が主祭神だった
   【社殿】本殿三間社流れ造り桧皮葺
       拝殿・神饌所・社務所

   【境内社】天照皇大神社・住吉神社・手力雄神社・天児屋根神社
        少名彦名神社・大国主神社・猿田彦神社・市杵島神社・事代主神社
        八意思兼神社・保食神社・狭依比女神社・鍵取神社・火産霊神社
        境外の末社 鏡作坐若宮神社・稻荷神社


4〜5世紀にかけて、己の魂が宿るものとして最も崇敬した鏡類を製作鋳造することを業としていた鏡作部が、この地一体に住居し、御鏡(天照国照彦火明命)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として開いた神社である。
崇神6年、皇居内の天照大御神を畏れ多いとして笠縫の地に遷座せしめたとある。八咫鏡を皇居から出したと言う事である。その代わりの神鏡を鋳造した際の試鋳の像鏡を御祭神としたとされる。
この神社の御神体は確かに三角縁神獣鏡であるが、これは土が付いており、古墳から掘り出されたものと思われる。
江戸時代は、麻気神(天糠戸命)が主祭神だったと思われる。


由緒

上代人が己ガ魂の宿るものとして最も崇啓尊重した鏡類を製作鋳造することを業としていた鏡作部がこの地一帯にわたって住居し御鏡(天照国照彦火明神)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として奉祀したのが当神社であって古来鏡鋳造鋳物元祖の神として尊崇信仰されている
第十代崇神天皇のころ三種の神器の一なる八咫鏡を皇居におまつりすることは畏れ多いとして別の所におまつり致し(伊勢神宮の起源)更に別の御鏡をおつくりになった。その神鏡を八咫鏡をおつくりになった石凝姥命の子孫鏡作師がこの地に於いて崇神天皇6年9月3日に鋳造した。それを内侍所の神鏡と称するがその鋳造に当たって斌鋳せられた像鏡は之を天照国照彦火明命と称えておまつりした。これが当社の起源である。
中座は天照国照彦火明命であり右座は鏡作の遠祖石凝姥命,左座は天糠戸命を祀り申し上げている。御由緒が尊いので昭和11年県社に列し更に官幤社昇格の運動を進めていたが終戦と共にそれも沙汰やみになってしまったのは仕方ないことです。
古来から有名な神社であり江戸時代も鏡商の信仰が随分厚かった様であったがその後途絶えていたのを最近復活,鏡業界の方々の参拝していただく様になったのは誠によろこばしいことです。鏡作大神もさぞかし御満悦下され鏡業界の繁栄と発展をお護り下されお進め下さることと存じます。
終戦後一時神社の信仰も軽んじられましたが三十年余も経過した今日は従来の姿に復帰し日本人本来の神の道への奉仕が自覚反省せられ伊勢神宮をはじめ各神社の尊崇参拝もいよいよ盛んになって参りましたことはよろこびにたえません。とりわけ鏡業界の方々にとっては業界の遠祖であり生みの大おやである鏡作大神との深き御関係に思いを致され心の故郷として今後共に当神社に御参拝御信仰お心をお寄せ下さいます様ここに一言御挨拶もうしあげます。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




鏡作坐天照御魂神社(鏡作神社)

祭神 天照国照彦火明命・石凝姥命・天糠戸命
由緒  「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。
 第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居の内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑におし祀り(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。社伝によると、「崇神天皇6年9月3日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。
 古代から江戸時代にかけて、このあたりは鏡作師が住み、鏡池で身をきよめ鏡作りに励んだといい、鏡の神様としては全国で最も由緒の深い神社である。
田原本町

社頭掲示板



鏡作坐天照御魂神社

上代人が神の御魂の宿るものとして尊んだ鏡の鋳造を業とした鏡作部がこの地に住居したこの神社を氏神としてお祀りしていた。
三種の神器の一なる八咫鏡をお作りになった石凝姥命を鏡作伊多の神と称えて右座にその御父天糠戸命を鏡作麻気の神と称えて左座にお祀りし中座には天照国照彦火明命と申し上げて崇神天皇6年9月3日この地で内侍所の神鏡が鋳造せられた際の試鋳の像鏡を御祭神として奉祀する。
鏡作三社大明神として遍く知られ式内大社に列し鏡作師はこの地に集まり鏡の池の水を以て秘法を授けられたと縁起に伝えろ。古来鏡業界に於いては業祖として信仰篤くまた心も姿も美しくありたいと祈願する人々の参拝も多く鏡の神様として全国で唯一の格別に御由緒の深いお社である。
奉献 聖界凰導
宮司 原正明 誌

社頭掲示板



鏡作神社

鏡作神社什宝の二神二獣鏡で酩帯より以外は切断されて存しない。現存部、径四寸五分、緑厚一分一厘、面に一分七厘弱の反りを有し青さびあり、今鉛黒色を呈してゐる。鏡面を見るに円座鈕を繞りて有筋重孤紋圏あり、内区には綟形座乳の間に二神二獣を四方より見るベく交互に配してゐる。神像中一は三角山形冠を載き羽状の附せる正面座像なるも他の一はこれに反して二神像の稍傾きて坐し中央は小さき練形座乳を擁してゐる有様をあらはしてゐる。これ或は女像を図したものではなからうか、獣形もまた其の形に多少相違を認めることができて其の一には三重の笠松図形をあらはし、他の一には之を小人物を置いてゐる。けだし龍虎を示すものであらう。今存する鋸歯紋を界として銘帯存し、三角縁に終つて居たであらうが故に富岡京大講師も言はれた如く支那製作と証する銘文ありて都合のあしきため(古鏡の研究一一七頁)切断してうつたのであらう。今存する部分の図様は頗る鋭利な肉刻を表現してゐるこれと内区の構造を一にせるものとしては摂津國武庫郡岡本村マンバイのヘボリ塚出土の三角縁唐草紋の二神二獣鏡がある其の製作の時代は、けだし魏晋の間に置くべきであらうか

『やまと』 森本六爾



鏡石

鏡作坐天照卸魂神社
「鏡石」について
此の鏡石は江戸時代に前の鏡池より出土したもので、古代の「鏡」製作時、近辺の鏡作郷よりの粗鏡の仕上げ、即ち鏡面の研磨工程時使用ざれた用具かと推察される。
鋳造面を「鏡面」への研磨時、この鏡石の凹面に粗鏡を固定し上方から水を流し乍ら、二上山の麓より採取した金剛砂等で、「平面加工」や「鏡面加工」を施した時の用具かと考察される。
文 堀内篤夫

社頭掲示板



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