大和川の西岸に鎮座する。もとは「天つ神」の意味でで天神と称していたが、次第に天満宮を意味するようになった。 境内に接して法貴寺(法起寺とも書く)千万院がある。もと宮寺で、真言宗新義派である。 社名の示すように機織(幡)の神であって推古帝24年(615)聖徳太子草創の法貴寺伽藍を賜った秦氏がその祖神守り神として崇敬した古社である。 古は盛大なる社頭であったが漸く衰退し、中古以来其在所詳かに知り難き状態になった。 法貴寺村の天神と称する社を式社と見なすようになった。 |
略記 延喜式神明帳に「池坐朝霧黄幡比売神社大月相甞新甞」と見える。 社名,祭神名の示す如く機織(幡)の神であって推古帝24年(615)聖徳太子草創の法貴寺伽藍を賜った秦氏がその祖神守り神として崇啓した古社である。 また法貴寺記録によれば天慶9年(946)9月19日北野天満宮より菅原道真公を勧請し相殿にした由が見える。古来法貴寺天神または天満宮として遍く知られており法貴寺(長谷川氏の氏寺)の鎮守神として信仰をあつめていた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
池坐朝霧黄幡比売神社 池坐朝霧黄幡比売神社 旧郷社 御祭神 天萬栲幢千々比売命 菅原道真公 例祭日 10月19日 延喜式神明帳に『池坐朝霧黄幡比売神社 大月次相嘗新嘗』と見える。 社名祭神名の示す如く機織(幡)の神であって、推古帝24年(615)聖徳太子草創の法喜寺伽藍を賜った秦氏が、その祖神守り神として崇敬した古社である。 また法貴寺記録によれば、天慶9年(946)9月19日に北野天満宮より菅原道真公を勧請した由がみえる。 古来、法貴寺天神又は天満宮として遍く知られており、法喜寺(長谷川氏の氏寺)の鎮守神として信仰をあつめていた 社頭石碑 |
池坐朝霧黄幡比売神社 初瀬川東岸に鎮座。天万栲幡千千比売命・菅原道真を祀り、天満社とも称する。旧郷社。「延喜式」神名帳の城下郡「池坐朝霧黄幡比売神社(大、月次相嘗新嘗)」に比定される(大和志)。「延喜式」九条家本・金剛寺本は黄幡を横幡と記すが名義不詳。池は地名と思われ、当社西方、下ツ道の西に奈良興福寺領池辺荘があった。天平2年(730)の大倭国正税帳(正倉院文書)には「池神」とみえ、神戸の租稲七七束のうち四束が祭祀料に、五十束が神嘗酒料に充てられていた。大同元年(806)の牒(新抄格勅符抄)では大和国に神戸三を有し、天安3年(859)1月27日従五位下より従五位上になっている(三代実録)。中世には長谷川党法貴寺氏の氏寺として栄えた法貴寺が隣接し、当社はその鎮守神であったといわれる。貞応2年(1223)に書写された大般若経巻401(五島家蔵)には「大和国長谷川法貴寺天満天神」寛文12年(1672)の法貴寺記録(大和志料)に「天満宮」とみえ、天慶9年(946)の鎮座とし、9月17日の祭礼には流鏑馬・紳能のあったことを記す。至徳元年(1384)の長川流鏑馬日記(天理図書館保井文庫)によると、若宮御祭りの願主人は6月1日、法貴寺天満宮へ社参して神楽を催し、9月19日の法貴寺の神事の宵宮に神楽・流鏑馬をして、12月27日の若宮御祭りには当社へ集合して奈良へ向かったという。永正2年(1505)9月19日には多聞院英俊が神事見物のため下向している(多聞院日記)。 寺院神社大辞典 |