高屋安倍神社[若桜神社境内社]
たかやあべじんじゃ             . 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】高屋安倍神社 三座(並名神大 月次/新嘗)大和国 城上郡鎮座
          (旧地)高屋安倍神社【旧地】

   【現社名】高屋安倍神社
         若桜神社の境内社
   【住所】奈良県桜井市谷344
       北緯34度30分29秒,東経135度50分46秒
   【祭神】屋主彦太思心命 大彦命 産屋主思命
       「明細帳」「屋主彦太男心神、大彦命、彦御主田心命」
       『取調帳』「屋主彦太男心命、産屋主田心命、大彦命」
       『大和志料』「建沼別命、高橋丸、兄姫ヲ祭ル是安倍氏也」

   【例祭】10月15日 高屋安倍神社例祭
   【社格】
   【由緒】天安元年(857)8月庚申従五位下より従五位上『文徳実録』
       天安2年(858)4月戊申従五位上より従四位下『文徳実録』
       天慶3年(940)9月4日丙寅正四位下より従三位『日本紀略』
       その後は沓として歴史の上から消息を絶つ

   【関係氏族】阿部氏
   【鎮座地】もとは現地南方400mの松本山にあり
        享保21年(1736)以前に霖雨の爲め
        一山崩潰社殿破壊し終に若桜神社の境内に遷座

   【祭祀対象】阿部氏の祖を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿春日造銅板葺 若桜神社の本殿西側(向って左)
       拝殿・土藏・社務所

   【境内社】

もとは現地南方400mの松本山にありとう。霖雨の爲め一山崩潰社殿破壊し終に若桜神社の境内に遷座せりという。享俣21年(1736)似前現地へ遷。阿部氏の祖を祀る神社と思われ、高屋安倍神社が、三座そろつて名神大社に列したのは、阿倍氏が新嘗祭・服属儀礼という宮廷の食物供献儀礼をつかさどる天皇近侍的性格諸官をすべる立場にあつたからとされている。
若桜神社の本殿西側に鎮座している。
旧社地は桜井公園(東側に桜井小学校が隣接する)辺りかと思われるが、確証はない。


高屋安倍神社

平成5年8月8日
高屋安倍神社御祭神の大彦命御分霊を越前の鯖江市松阜神社に奉持して
奉祝
鉄斎の
 古き墨付
  かみことは
 高屋安倍なる
  大彦の神

社頭石碑



鎮座地

等彌神社藏の永正十一年古図(実は江戸時代の元禄ごろの作)に、谷邑の上方にあたつて西向きの社殿が描かれ、大きい鳥居もある。これは恐らく高屋安倍神社と思はれるが、書入れがないのでつまびらかでない。しかし、古図には、西方から南北に流れる小流を渡つて、安倍山の頂上に登り鳥居をくぐつて、社殿前に達する参道を描いてゐる。

式内社調査報告



高屋安倍神社

JR桜井線桜井駅の南約600mの式内若桜神社境内に鎮座する。元はこの南方400mの字松本山に鎮座した『延喜式』神名帳に登載の名神大社で、今は若桜神社本殿の向って左側の境内社である。祭神は三柱で大彦命『姓氏禄』によると、孝元天皇の皇子で布施朝臣、安倍朝臣の租紳とある。他の二柱神は詳かでない(特選神名帳)。元の鎮座地が流出したのでここに遷座したがその時期は明らかでない。
『文徳実録』に「天安元年(857)8月庚申従五位下より従五位上に昇進し、翌2年4月戌申に従四位下を授けられている。『日本紀略』には天慶3年(940)9月4日丙寅従三位にのぼったと記されている。名神大社として崇敬されてきたがその後は歴史上消息を絶っている。旧鎮座地の松本山東方は字狐山で、南側は字草墓になるが七世紀前半阿部氏関係の墳墓とみられる。阿部氏の祖先を祭った神社と、同じく葬った墳墓の先後関係は不明であるが、平安中期以前聖なる地として崇められていた地である(式内社調査報告 松本俊吉氏稿)。例祭は10月15日。

奈良県史



高屋安倍神社三座 並名神大月次新嘗

高屋は多加夜と訓べし、」安倍は假宇也〇祭神安倍氏祖○父老云、昔在櫻井谷邑管杓安倍松本山、近移若櫻神社傍、今尚称一満径捌神嶽激○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和国高屋阿倍神社三座、○姓氏録、(左京皇別上)阿倍朝臣、孝元天皇皇子大彦命之後也、』士御門家譜云、孝元天皇皇子大彦命後胤、倉橋麻呂、一名内麻呂、號高屋明神、
神位
文徳実録、天安元年8月庚辰、在大和国從五位下高屋安倍神、授從五位上、同2年4月戊申、在大和國從五位上高屋阿倍神、授從四位下、日本紀略、天慶3年9月4日丙寅、奉授大知國正四位下高屋安倍神從三位、

神社覈録



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