桜井市の市街部の南側、近鉄桜井駅構内から南に緑濃い社叢が望まれる。履中天皇の磐余稚桜宮跡だとする説がある。 前方後円墳の後円部丘上南斜面に位置し、周囲の南と西は環濠らしい凹部をめぐらしている。 履中天皇が皇妃と磐余市磯池で遊ばれていた時、時ならぬ桜の花が杯に散り、物部長真膽連に花を探させたところ掖上の室山で、桜を見つけ、献上した。これにより、宮号を磐余稚桜宮とあらため、稚桜部造と稚桜部臣が置かれたという。 神社の西側と東側を字堂の前、北側を字堂浦というから、神宮寺があつたことがうかがえる。 向つて右(写真では手前)が若桜神社本殿で左が合祀の高屋安倍神社(式内社)である。 磐座が本殿の向つて右と、高屋安倍社の向つて左に各々一基あて、あるが、両者とも名称も信仰もなく、原所在地もわからない。 大正時代中ごろまで末社多神社があった。多神社は現在、本殿内に合祀されてゐるが、若桜社に遷る以前は、ワラビ塚にあつて、いまの田原本町多の式内大社・多坐彌志理都比古神社は、寺川の洪水でここから流されて行つたという伝説をのこしている。 当社北側の高台には土舞台がある。聖徳太子が舞踊をしたと伝えられているところで、芸能の発祥の地としている。 |
若桜神社 桜井市街地南側、近鉄桜井駅から真南に臨む社叢まで約550mの地に鎮座する。祭神は伊波我牟都加利命 の後裔で若桜朝臣の祖伊波我加利命 。『大和志』には「在桜井谷邑 今称白山権現」とあり『延喜式』神名帳城上郡の若桜神社に比定されるが、大字池ノ内(旧安部村)の稚桜神社とする説もある。本殿内に大正(1912−26)ごろまで当社東の小祠として祀られていた神武天皇を祭神とする多神社を合祀している。境内の東と西に、小字堂の前、北に堂の浦の地名があり、かって神宮寺があったことを思わせる。鎮座地は前方後円墳の後円部丘上南斜面で、周囲の南と西に環濠を思わせる凹部をめぐらしている。 例祭は10月17日。 奈良県史 |
若桜神社 若桜神社は若桜部朝臣や阿部朝臣の祖神といわれる伊波我加利命(いわがかりのみこと)を祭神とし、『大和志』には「在桜井谷邑 今称白山権現」とあり『延喜式』神名帳城上郡の若桜神社に比定されますが、大字池ノ内の稚桜神社とする説もあります。 また高屋安倍神社は『延喜式』神名帳に登載されている名神大社で、祭神は屋主彦太思心命(やぬしひこふとしたまのみこと)・大彦命(おおひこのみこと)・産屋主思神(うぶやぬしおもひのかみ)の三座で、名神大社として崇敬され天慶三年(940年)頃までの記録はあるようですが、その後、歴史上消息を絶っています。 又、この地を履中天皇の磐余稚桜宮跡に充てる説もあり、書記に履中天皇が皇后と磐余の市磯池(いちしのいけ)で遊宴中に、桜の花が盃に落ちた事を天皇は珍しい事と喜ばれ、この桜のあった御所の掖上の桜を清水湧き出る泉のそばに植えられ、宮の名前も磐余稚櫻宮にされたといい、桜井という名はここからきているといわれています。この井戸といわれるものは、当神社のすぐ近くにありますが近年、若櫻神社にも復元されています。 桜井市観光協会 |
磐余池の痕跡 日本書紀などに登場する「磐余(いわれ)池」の所在地について、桜井市谷の若桜神社付近との説を掲げる千田稔・県立図書情報館長(歴史地理学)が、戦後直後に米軍が撮影した航空写真で同神社西側に池の堤跡を見つけた。「磐余池の跡だと考えられる」としている。22日、斑鳩町興留10丁目のいかるがホールで開かれた「太子の日フォーラム」で発表した。 千田さんは昭和22年に米軍が撮影した都市化が進む前の桜井市の航空写真を精査。東西南北が整った条里地割の中に、若桜神社の西側で別の地割が馬てい形に残っているのを見つけた。古い地図で見ると、周囲の水田よりもやや微高地で、池の堤の跡と考えられるという。 奈良新聞2015.2.23 |
若櫻神社 若櫻は和加佐久良と訓べし○祭神詳ならず○櫻井谷村に在す、今白山権現と称す、今十市郡に属す、(大和志)○姓氏録、(右京神別上)若櫻都造、神饒速日命三世孫、出雲色男命之後也、四世孫物部長真膽連、初去來穂別天皇、(諡履中)泛両枝船於盤余市磯池、與皇妃分駕遊宴、是時膳臣余磯献酒、櫻花飛來浮于御盞、天皇異之、遣物部長眞膽連尋求、乃探得液上室山献之、天皇歓之、貯余礒姓稚櫻部臣、」同、(右京皇別上)若櫻部朝臣、阿倍朝臣同祖、大彦命孫伊波我牟都加利命之後也、 日本紀、神功皇后3年正月丙戎朔戊子、立誉田別皇子、為皇太子、因似都於磐余、是謂若櫻宮、」同紀、履中天皇3年11月丙寅朔辛未、天皇泛両枝船于磐余市磯池、與皇妃各分乗而遊宴、膳臣余磯献酒、時櫻花落于御盞、天皇異之、則召物部長真膽連、詔之曰、是花也非時而來、其何処之花矣、汝自可求、於是、長真膽連独尋花、獲于掖上室山而献之、天皇歓其希有、即爲宮名、故謂磐余稚桜宮、其此之縁也、是日改長真膽連之本姓、曰若桜部造、又號膳臣余磯、曰若桜部臣、」同紀、天武天皇13年11月戊申朔、若櫻部臣、賜姓曰朝臣、 神社覈録 |