穴師坐兵主神社
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   【延喜式神名帳】穴師坐兵主神社(名神大 月次/相嘗/新嘗)大和国 城上郡鎮座
   【延喜式神名帳】巻向坐若御魂神社(大 月次/相嘗/新嘗)大和国 城上郡鎮座
   【延喜式神名帳】穴師大兵主神社 大和国 城上郡鎮座

   【現社名】穴師坐兵主神社
   【住所】奈良県桜井市穴師1065
       北緯34度32分42秒,東経135度51分28秒
   【祭神】兵主神
   【例祭】4月8日 例祭 10月21日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】穴師坐兵主神社
       垂仁天皇2年の鎭座という
       天平2年(730)神戸の租をもつて、神祭『正倉院文書』
       大同元年(806)大和・和泉・播磨の地で五十二戸を神封
       貞観元年(859)正月27日従五位上『三代実録』
       正暦5年(994)4月、中臣氏を宣命使として奉幣
       中世穴師上社と称した
       応仁の頃上社(穴師坐兵主神社)が焼失、下社(穴師大兵主神社)に合祀
   【由緒】巻向坐若御魂神社
       天平2年(730)神戸の租をもつて、神祭『正倉院文書』
       大同元年(806)大和の地で二戸を神封
       貞観元年(859)正月27日従五位上『三代実録』
       応仁の頃下社(穴師大兵主神社)に合祀
   【由緒】穴師大兵主神社
       鎮座年代不詳
       中世穴師下社と称した
       応仁の頃上社(穴師坐兵主神社)が焼失、下社(穴師大兵主神社)に合祀
       応仁の頃巻向坐若御魂神社を下社(穴師大兵主神社)に合祀
   【由緒】合祀以後
       明治6年(1873)郷社
       明治7年(1874)社殿三棟を、今の地に再建
       昭和3年(1928)県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地はもと穴師大兵主神社の鎭座地であった。
        穴師坐兵主神社は弓月岳にあった(巻向山中の旧社は、平野山であるとの説もある)
        巻向坐若御魂神社は巻向山中に在つた。旧社地不詳
        応仁の頃、上社が焼失したので三社を当地に合祀した

   【祭祀対象】渡来の帰化人が祀った神
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神饌所・社務所・祭器庫・手水舎・宝藏

   【境内社】須佐男神社・奇稻田姫神社・水神社・祓戸神社・八王神社・祖霊社

巻向山麓、巻向川の北側に位置する。
式内社である三社、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の三社を合祀したものである。
現在の鎭座地は、もと穴師大兵主神社の鎭座地であった。
もと当社は、上下二社に分れ、弓月岳に在つた上社が穴師坐兵主神社、下社が現在地にあり穴師大兵主神社であつたが、応仁の頃、上社が焼失したので、これを下社に合祀した。またその頃、同じく巻向山中に在つた巻向坐若御魂神社も下社に合祀せられた。すなわち穴師大兵主神社に合祀せられたのである。
応神以降の渡来の帰化人がその居住地に鎮祭したものか。
中世神宮寺(眞言宗)があつて社僧がいたが、近世に入り衰亡した。
明治7年(1874)社殿三棟を、今の地に再建し、中央社を穴師坐兵主神社とし、右側社を巻向坐若御魂神社、左側社を穴師大兵主神社とした。
[穴師坐兵主神社]元は弓月岳にあったが、この弓月岳は一体どの山か、竜王山、穴師山、巻向山の説がある。
[巻向坐若御魂神社]中世、社殿荒廃。穴師上社ともに、山麓穴師大兵主神社(穴師下社、今の穴師坐兵主神社)へ合祀せられて現在におよぶ。旧社は明らかでない。


大兵主神社縁起

大和平野の開拓は、その周囲山麓地帯からはじまったと考えられ、当社のすぐ西には垂仁、景行両天皇皇居跡があり、また少し西北には祟神、景行両天皇陵もある。さらに、日本最古の道路である「山の辺の道」は南方三輪海柘榴市からはじまって、その諸陵や皇居跡を通り、天理市を経て奈良市に通じている。またこの大和古道に、山間部から下りてくる道の交る地点らは古い市の発達がみられ、当社のすぐ西方も、いわゆる古の「大市」のあったところと考えられる。したがって、当社附近が、上代大和文化の一中心地域であったのはもちろん、最も早くひらけたところであって、こゝに大和一国の農耕信仰が集り、また、国土安穏の平和信仰が集るのは当然であった。とくに昔「福瀬路は畏き道」として、福瀬谷が大和から東国への一般通路とならなかった前、纏向川に添い、弓月嶽の麓を通って、大和高原の上に出て伊賀、伊勢に行く道は、大和と東国を結ぶ重要な交通路であった。これが重要であるだけに、同時にその大和平野への出口は、また東国の勢力から大和を渡る要点でもあった。これが当社がこの地に早く設けられ、国土繁栄(農耕乞雨信仰)、平和安全(鎮武信仰)の神として重要な国家の祭祀を受けるものであった。いわば、南隣の三輪山に鎮る大物主神が、出雲系の三輪族の祖神として、国土開拓神の信仰を集めたのに対応し、当社は、生産と平和の神としての国家的信仰によって始った神社であるといえる。有名な野見宿彌の角力の説話が当社にあるのも、それが天皇の国土統治の象徴として行われた呪術であるとされるように、当地は、古代大和、ひいては日本の一中心であったのである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



大兵主神社

当社は三神殿にして、古典の伝えるところでは、今から2000年前の御創建にかかり、延喜の制で、名神大社に列せられ、祈年・月次・相嘗・新嘗のもろもろの祭の官幣に預かり元禄五年には正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社といわれています。
中央の神は、第十代崇神天皇の六十年、命を受けて皇女倭姫命が創建され、天皇の御膳の守護神として祀られ、天祖降臨の際の三体の鏡の一体を御神体として、御食津神と申し上げ、生産と平和の神、又、チエの神として崇敬を受けられました。
右の神は、三種の神器を御守護された稲田姫命を御祀りし、御神体は勾玉と鈴で、芸能の神として崇敬を受けられています。
左の神は、纏向山上の弓月嶽に祀られたが、後に下られて御祀り申し上げています。
御神体は剣(ホコ)で、武勇の神、従って相撲の祖神となり、スポーツ界の信仰を御受けになっています。その神殿はいずれも三つ屋根造りで、全国にその類を見ません。

社頭掲示板



大兵主神社

纒向・日代官跡
紀元730年、第12代景行天皇・大足彦忍代別命(オオタラシヒコヲシロワケ)が、即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。その立役者は、皇后の播磨稲日太郎姫(ハリマノイナヒヲイラツメ)との間に生まれた日本武尊(ヤマトタケル)である。景行天皇の業績で注目すべきことは、日本の国の真の歴史並びに天成(アマナリ)の道(宗教・政治の理念)を子々孫々に遺すべしとの日本武尊の遺言に従い、五・七調の神代文字で記された秀真伝(ボツマツタエ)文献を、三輪君の祖となる大直根子(オオタタネコ)に命じて編纂させ、後世に遺したことである。
穴師坐兵主神社

社頭掲示板



大兵主神社

大兵主神社 大和国穴師坐兵主神社
御祭神 若御魂神社(右)
    兵主神社(中)
    大兵主神社(左)
御創建 崇神天皇60年
御由緒
当社は三神殿にして、古典の伝えるところによると、今より、二千年前の御創建にかかり、延喜の制で名神大社に列せられ、祈念、月次、相嘗、新嘗のもろもろの官幣に預り、元禄5年には正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社である。
御神徳 衣食住を守護し、風水を司る。

社頭掲示板



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