本郷川(旧称神達川)の北岸、山据の水田に囲まれた樹叢が旧鎭座地で神樂岡とも称せられた所である。 神社の付近一帯はかつては阿騎野といわれ、朝廷直轄の狩猟場であった。近くに、万葉歌人・柿本人麻呂の歌 「ひむがしの 野にかぎろひの 立つみえて かへりみすれば 月かたぶきぬ」 の「かぎろい」で有名な、「かぎろいの丘」があり、今では万葉公園として整備されている。 神武天皇東遷の時、神夢に依つて椎根津彦命と弟迦斯の二人に命じて天の香山の埴土を取り土器と壼を作らせて多数の器に天の甜酒を入れ、神戸の社(当社)の木々の下に備ヘて天神地祇を祭った。 『倭姫命世記』の「宇多秋志野宮」の地とする。 此の地が伊勢大神宮の神戸が置かれていたので神戸大神宮の社号がおこったと考えられる。 社地の前を西南から東北に流下する本郷川は当社の御手洗川で、南岸狭長な水田を隔てて数十メートルの高い位置に墳丘を覆う樹叢の地があり、ここを高天原と称する。 天正年中(1573〜1592)に神樂岡の社を現在地に遷座したと伝え、又造営の時にこの地に一時遷座する所であるとも云われていて、社地の跡と考えられる所が今残つている。 神宮寺についてはあきらかにする文献は乏しいが、天照大神の本地仏である大日如来を安置する大日堂があつたという。 平成4年より、由緒ある能舞台で薪能を再開。平成7年には「あきの蛍能」と名前を変え、6月中旬のメインイベントとして開催されている。 |
阿紀神社 宇陀川の支流本郷川(神戸川)の西岸に鎮座する社を、式内阿紀神社鍬靫にあてられている。「大和志」には神戸明神と称すとあり、「皇太神宮儀式帳」には、宇太阿貴宮というとあり、「倭姫命世紀考」には神戸大神宮と呼んでいる。 祭神は今、天照皇大神を主神に、天之手力男命・邇々芸命・秋毘売神・八意思兼命を配祀する外、天水分神・菅原道真公・金山彦神・金山姫神を合祀する。 この地は「大神宮詣雑事記」に大和国宇陀神戸十五戸」とある神戸の地とみられ、神戸村の名もここからおこり、阿紀神社を神戸大神宮と呼ばれるようになったと考えられる。創祀については、倭姫命の神幸伝承に求める説がある。「皇太神宮儀式帳」「倭姫命世紀」によると、倭姫命が天照皇大神の御霊を奉じて、大和の美和の御諸宮から宇太の阿貴宮、佐々並多宮、伊賀の穴穂宮、阿閇拓殖宮、近江の坂田宮、美濃の伊久良賀波の宮、伊勢の桑名野代官、鈴鹿小山宮、壱志藤方片樋宮、飯野高宮、多気佐々牟■宮、磯宮、宇治家田上宮等から五十鈴川上に斎き祀ったという。 特に「倭姫命世紀」(『大和志料』所収)には大和国宇多の秘志野宮に遷り4ケ年間奉斎とある。延宝9年(1681)開版林宗甫の「和州旧幽考」神戸に「当世宇陀の町より、4・5町坤の方に、俗に皇太神御鎮座の跡とて小社有り。其所の名を神戸といへり。天照太神宇陀の秋宮に四とせいはひ奉るの時、倭国造采女香刀比売地口の御田を奉れり」(倭姫命世紀)と記している。明治以前は、天照皇大神の本地仏である大日如来を安置の大日堂が当社境内にあったが、「神社調査書」によると、明治初年の神仏分離の時、大日堂は迫間の天香久山天益寺に移されたという。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
阿紀神社 神武天皇紀州熊野の難所を越し、大和国宇陀へ出て当地阿紀野に於いて御祖の神を敬祀り国中に押し出すとき、朝日を後に載きて日神の御位勢をかり賊軍をうち払い御運を開かせ給うと、当社古文書にあり。祭神は伊勢神宮と御同体の天照皇大神。社殿は神明造り南向きと伊勢神宮と全く同じ建て方になっています。境内にある能舞台は宇陀の地が元和以来織田藩の治所となり三代長頼公時代に始められたものといわれている。 社頭掲示板 |
阿紀神社 縣社 阿紀神社縁起 社名 阿紀神社 元 阿貴宮又ハ神戸大神宮ト稱ス 祭神 天照坐皇大神 秋姫命 八意思兼命 天之手力男命 由緒 延喜式内社 宇陀郡十七座ノ中 鍬靱 奉幣社也 大国主神ノ孫姫、秋毘賣神 宇陀ノ荒野ヲ柘植経営シ給ヒ 秋野ノ狭間ヲ万代ノ宮處ト擇ビ定メテ 鎮座シ給ヘルガ 此ノ神社ノ創祀ナリト云フ 神武天皇ト御東征ノ砌リニハ此宮處ニ※大纛(※【たいとう】軍中で用いる大きな旗。天子のいる陣営。大本営。)ヲ樹テ給ヒ 天神地祇ヲ祀ラレ崇神天皇60年ニハ 皇女倭姫命天照大神ノ御杖代トナリ 四ヶ年間此宮ニ斎キ奉ル 今ヲ遡ル二千餘年前也 祭日 例祭 10月17日 地方例祭旧8月16日煙火祭ヲ行フ 社格 縣社 明治35年列格元郷社 奈良縣宇陀郡神戸村迫間小字吾城野鎮座 阿紀神社々務所 社頭掲示板 |
縣社 阿紀神社 祭神 天照皇大神 天手力男命 邇々杵命 秋姫命 八意思兼命 合祭神 菅原道眞 天水分神 金山姫神 創立年代詳ならざれども、垂仁天皇の御宇皇女倭姫命、天照大神の宮処を求めて、美和御諸宮より字太阿貴の宮に遷し奉り、次に篠畑宮に赴き給ふこと延喜式儀式帳に見ゆ、蓋如此由緒を以て奉祀せるものなるべし、時に倭国造神田神戸を奉りき、所謂宇陀神戸是也、今に至りて此地猶祭祀米を神宮に奉ると云ふ(神祇志料)倭姫世記に「六十年癸未、還于大和國宇多秋宮」とあるは蓋し当社なるべく、総國風土記残欠、「阿紀神社、圭田廿八束、所祭手力雄神也、欽明天皇4年、始奉圭田行、祭礼神事」とあり、祈年祭に鍬靫を奉らる、又神武天皇東征の日、夷族猖獗なるにより嚴甕を作り、丹生川上に陟り、天神地祇を祭りて神助を仰ぎ給ひしも、此の処なりと伝ふ、(日本書紀社記)俗に神戸明神と称し、隣村三十ケ村の氏神たり、大和志に云く、 「阿紀神社鍬靫阿紀萬葉集作安騎在迫間村今称神戸明神域内有、中祠九前、隣村三十共預祭祀、日本紀曰、神武天皇陟于丹生川上用祭天神地祇、云々、」 吾騎野萬葉集に曰く、「軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿 阿騎乃野爾宿旅人打靡寝毛宿良目八方古部念爾(あきのぬにやどるたびびとうてなびきいもねらたまもいにしへおもふに)」 などあり、古来著名の大社にして明治6年郷社に列し、同35年縣社に昇格せり。 社澱は本殿、社務所、舞台、鏡間、階懸、宝蔵等の建物あり、境内1386坪(官有地第一種)、其地を神樂岡と云ひ、宇陀山中の高地に位し、森林を以て覆はれ荘厳なる神境なり、朋治42年同村水分神社並八幡神社を本社に合併せり、又宝物としては寛永、寛文年中の古文書及棟札、太刀(銘天國)、神鏡、勾玉、御湯釜等を所蔵せり。 明治神社誌料 |
阿紀神社 鍬靭 阿紀は假字也○祭神詳ならず○迫間村に在す、今神戸明神と称す、(大和志、同名所図会)○日本紀、天武天皇元年6月辛酉朔甲申、是日発途入東国、事急不待駕而行之、即日到苑田吾城、』倭姫世記、六十年癸未、還于大和国宇多秋宮、○総國風土記残欠云、阿紀神社、圭田廿八束、所祭手力雄神也、欽明天皇4年、始奉圭田行祭禮神事、 考証云、古事記秋毘売神、いづれか定めがたし、〇大和志云、神武天皇陟于丹生川上、用祭天神地祇即此、 神社覈録 |