芳野川の北岸、古市場の聚落のほゞ中央、杉の巨樹に囲まれて西向に鎭座する。 本殿三棟は鎌倉時代(1320)の建造で国宝に指定されているほか、 摂社春日神社社殿、同じく摂社宗方神社社殿ともに重要文化財に指定されている。 第十代崇神天皇7年2月の勅祭と伝えられており、大和四水分のうちの一、祈雨祭八十五座の一座である。 本殿向って右から数えて第一殿、第二殿、第三殿と並んでいる。 |
参拝のしおり 水の神様宇太水分神社のしるべ 御祭神 水の神さま三神をおまつりしてあります。第一殿あめのみくまりの神、第二殿はやあきつひこの神、第三殿くにのみくまりの神、摂末社(境内社)春日神社、室町初期に奈良春日大社より勧請分社の神社で地氏子古市場の氏神社です。 社殿は国の重文の指定をうけています。宗像神社 室町末期に福岡県宗像大社より勧請分社の神社で社殿は国の重文の指定をうけています。特に蛙股に蟹の彫刻があり珍重がられています。戎神社は毎年2月7日初市祭があり、多くの出店露店が軒をならべて賑やかな祭日です。金刀比羅神社、稲荷神社、祓戸神社等あり、それぞれ祭日には氏子のあつまりがある。 鎮座地 奈良県宇陀郡菟田野町大字古市場字太野245。 祭日 例祭10月21日午前本祭 午後渡御祭(宇陀郡随一の賑わいあり)歳旦祭1月1日歳旦祭に上水道保全祈祷祭あわせて執行、毎月1日月次祭のほか年間約20回の祭典あり。神域(境内境外)約1万1千坪(主として杉桧林)。国の指定建造物国宝3棟、重文2棟。 由緒概要 崇神天皇、7年2月の勅祭延喜式の大社で水配の神として大和朝廷の勢力範囲圏、所謂その四周の東にあたる神社で宇陀郡式内17座の首座の宮で東和宇陀の総鎮護の神であります。神域は稀にみる幽翠の地にして源頼朝の奉納と伝える社殿の石基壇や、その記念に植えたという頼朝杉、後南朝50年の悲史をつたえる梵鐘堂跡等があり近時皇族方のご参拝もあって四季を通じ参詣がつづいています。最近、ご神水の井戸より水をいただきやすいようにいたしました。又水道企業関係の方々も全国より祈祷にお参りになります。 社殿の建築 本社本殿向って右から数えて第一殿、第二殿、第三殿の三棟は国宝で元応2年2月23日上棟の行事を番匠たちが行ったという棟木の墨銘が第一殿より発見せられ、鎌倉末期の建物で昭和54年逆算して660年になり、昭和48年の造営で14回保存、解体の修復が施行されています。 社殿の建築美については、それぞれの学者、識者の諸説を列記しますと、春日造本殿隅木入の平面と架構 春日造で庇垂木尻を身舎の正面破風や煽破風で受ける代わりに、隅木を前方に入れて庇垂木を納める隅木入春日造りは、宇太水分神社本殿(国宝・奈良県・元応2年・1321)に代表されるが、隅木入春日造の遺構は地域的分布でも述べたようにむしろ他の地方に多い。この形式の本殿平面には奥行2間の身舎を有するものと、1間のものが見受けられ、2間の身舎を持つ本殿は熊野神社本殿(岡山県・元応元年・1492)や石城神社本殿(重文・山口県・文明元年・1469)などがあるが、いずれも縁は背面まで1周しており、和歌山県の熊野神社本殿と共通する平面である。奥行き1間の本殿は鎌倉時代の遺構6棟を含む大部分だが、平面が横長もしくは方形であり、縁も正面と側面の三方に廻らすものが多い。基礎は多くが礎石建であるが、このことは前項の縋形式の春日造のような本社本殿の移譲の習慣のないことや、遺構の分布が地方にわたる結果であろう。隅木が入ることから正面と側面は一連の構法をとることが可能であり、宇太水分神社など比較的古い遺構でも組物は出組や出三斗など複雑な技法が用いられている。正面の妻も庇の屋根上で切られることから、破風の立ち所は縋形式のような制約を受けずに決めることができ、破風を全面に出すことによって屋根を非常に安定した感じに見せるのもこの種の本殿の特徴といえる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
宇太水分神社 当神社の創記は太古まで遡ることができ、第十代崇神天皇7年2月の勅祭と伝えられている。また、大和朝廷の勢力範囲の東西南北に祀られた水分の神の東に当たるのが、当社である。 平安時代以降も朝廷の崇敬篤く、「新抄格勅符抄」によると、平城天皇の大同元年(806)の牒に神封一戸が奉られており、承和7年(840)、貞親元年(859)それぞれ神位を進められた。貞観元年9月8日には、奉幣使を派遺して風雨を祈られている。醍醐天皇の延喜の制で大和四水分杜は大社に列せられ、祈年祭・新嘗祭・月次祭の案上官幣に預かり、祈年祭には座別に三尺木綿二両以下を、また特に馬疋が献上された。そして醍醐天皇の御代に編纂された「延喜式」には以下のような記載が見られる。 臨時祭式には、祈雨神祭八十五座の一座に列せられ、座別絹五尺、五色薄各一尺、絲一、綿一屯、木綿二両、麻五両、白馬等が献上されたと明記されている。 祝詞式には、祈年祭の祝詞として、水分坐皇神等能前爾白久。吉野、宇陀、都祁、葛木登御名者白氏云々。 神名式には、宇陀郡十七座 大一座 小十六座の中の大社。 中世に入ると朝廷から賜った物の記録は殆ど見られなくなるが、南北朝時代の正平6年(1351)5月、後村上天皇は唐招提寺より三輪を経て宇太水分宮に移られ、さらに吉野に遷幸されたと興福寺金蔵院實厳の日記「細々要記」にある。また、後村上天皇皇孫堯成親王が応永18年(1411)当杜に梵鐘を寄進されている。今その鐘の所在は不明であるが,「菟田野町史」(昭和43年出版)金石文の項によれば、寛永9年(1632)大宇陀町岩室の徳源寺に売却されたことが知られる。なお、鐘銘の拓本は同町の森野家が保存している。 その後、近代になると大正11年(1922)5月19日に、伏見宮文秀女王が御榊を奉られ、黒松を植樹された。また、昭和天皇の御代には、高松宮殿下が昭和30年(1955)5月12日に参拝され玉串料を奉られ、銀杏を植樹されている。 現存する本殿は鎌倉時代末期の元応2年(1320)2月に造営された。また、年代は詳らかではないが室町時代には、境内社の春日神社・宗像神社の杜殿の建造が行われている。 由緒書 |
境内 頼朝杉 境内にある一抱位の樹齢約350年程と云う杉で頼朝杉の二代目と伝える。源頼朝が幼少の時、水分神社の神に祈願し、この杉の苗が大きく育つことが出來れば自分も天下を治める大將軍になることが出来るであらうと占うために杉苗を植えさせたのがこの杉の初代であると伝えている。 薬の井 第一殿の後の丸石の石垣の根本に岩磐の間から落ちるしずくを溜めた井泉がある。推古天皇が即位19年(610)に菟田野に藥狩をなされた時、この井泉で心身を清められたと伝え、藥を服用するときこの水を飲めば一そう藥はよく効くと云い、又この水を祈祷して田に入れると水の心配はなくなり稲が豊かに実ると云われ「米の井」とも称せられ、今も氏子の入々は若水、香水として使用されているという。 有霊石 境内に、地表ヘ巾二尺・高五尺・厚一尺程頭をあらわした少し青味がかつた石がある。この石は山の神とも称し、高見山遙拝の目標とした霊ある石と伝える。むかし女の人が丑の時参りをした時、この石に釘を打ちつけたが入らなかつたのでそばにあつた欅の木の幹に打ちつけた所、釘はスーと入つて願ひがかなえられるものと信じた。 それ以後有霊石は幽霊石と間違えられるやうになつたと云ふ。又この石を弁慶の力石とも伝えている。 社頭掲示板 |
御由緒 宇太水分神社は、第十代崇神天皇の7年に勅命により祀られたと伝えられており、大和朝廷が飛鳥に置かれたころ、東西南北(それぞれ宇太、葛城、都祁、吉野)に祀られた大和四水分けのうち東にあたります。芳野川が四郷川と合流する付近に鎮座する当社は、古から水の守り神として信仰を集め、近隣の人々から「氷分さん」と親しみをこめて呼ばれてまいりました。 平安時代前期の第60代醍醐天皇の御代には、大和四水分は大社に列せられ、祈年祭、新嘗祭、月次祭の案上の官幣に預かり、「延喜式」において折雨神祭の八十五座の一座に列せられております。またその後、幼少期の源頼朝公が当牡に詣で、大将軍になれるかを占うために杉を植えさせ「水分の神の誓いをうえおきつ後に栄えの老杉を見む」と詠じたことが伝えられており、今もその杉の二代目が植えられております。 当地はかつて「宇陀の西殿の荘」と呼ばれ、春日社と興福寺の荘園であった縁で摂仕春日神社が春日社より勧請されて祀られました。市が立って栄えた場所でもありましたが、市が移ったのちは現在の地名てある「古市場」と呼ばれるようになっております。 鎌倉時代に建造された社殿は明治44(1911)年に特別保護建造物の指定を受け、その後改めて昭和29年に、本殿は国宝、摂社の春日神社および宗像神社は重要文化財の指定を受けております。このたび、平成16(2004)年の大造営により、社殿の彩色が美しくよみがえりました。 今も鎮守の杜には古木がうっそうと繁り、ムササビやフクロウも生息し、木々に囲まれた境内は、近隣の方々の憩いの場、子どもたちの遊び場として、昔から変らず親しまれる空間となっております。また水の守り神として、全国各地の水道事業所を始めとする企業、団体の方々にもご参拝をいただいております。 由緒書 |