子守町集落の南端大峯修行道のすぐ左、石段上にそびえる古木の繁みの中に鎮座する。 古くは吉野山山頂青根峯に「吉野水分峯神」として祀る。水分神社跡が広野千軒跡に残る。平安中期には「子守明神」として祀られる。大同元年(806)ごろ現地へ遷。 狭い社地に大きな社殿。 本地垂迩説によつて水分神を地藏菩薩の垂逐、藏王権現に属する神として山下の勝手明神と共に明治初年まで社僧並に禰宜によつて奉祀され、大峯七十五扉第七十二番の行場となつた。 2004年7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界遺産に登録されている。 |
子守宮御神徳畧記 本殿 中央春日造、左右流造、桧皮葺 幣殿 単層切妻柿葺 拝殿 入母屋造、柿葺 桜門及廻廊 重層入母屋造、栃葺、単層切妻栃葺、以上桃山時代代表建築(重要文化財) 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山鎮座の吉野水分神社は、延喜式神名帳に、吉野水分神社大月次、新甞、とある旧社にして、大和四処水分の第一に数えられ、吉野八大神祠の一つ、あめのみずわけで、俗に子守明神とも申されます御主神は天之水分大神でありまして、水戸の神の御子神にて、続日本記文武天皇二年夏四月戌午奉馬乎吉野水分神祈雨也とあり、みくまりは水配りにて、山谷より流れ出づる水を、程よく田畑に配分して、灌漑の便を図り給う神であります。もと灌漑の便を図りて稼植の事を掌理し給ふ神でありますが故に、古来風雨順ならず、早天などうちつづきて、稼植を損ふが如きことある時にはいつも朝廷より、馬及び御幣物を奉献して、この神に祈り給ふを例とせられしのみならず、中古神祇官に於て行はせられし祈念祭及び六月、十二月の月次祭には、案上官幣に預る大社である事は、延喜式の祝詞に徴しても明白の事実であります。されば当社にては、古来大祭として盛大なる御田植祭を執行し、遠近の氏子崇敬者御恩頼を蒙り、又神恩に奉賽するを恒例となってゐます。又当社の事を、古くより子守宮といひ伝へ神名帳考証などにも吉野水分神社大月次 新甞祭水神今伝子守明神とありて、世人はこの神社を出生育養即ち幼児守護の神として崇拝し、既に豊臣秀吉も、この神に祈願して、秀頼を設けその縁によりて慶長年中建部内匠頭光重を奉行とし建築再建に当らしめたるものにて、現に建物全部が重要文化財に編入せれれ居るは、其の当時再建のままの建物であり、それが桃山時代の豪華をもってするので華麗であり、精巧を極めています。国学者の泰斗として有名なる本居宣長翁も、翁の父母が、この神に祈請をこめし霊験により生れたという事が、翁の三度迄も当神社に詣でて報賽せられ、その折詠み残されし和歌によりても明白であります。 吉野山花は見ぬとも水分の神のみまへをおうがむがよさ 水分の神のちかひのなかりせばこれのあが身は生れこめやも 父母の昔思へば袖ぬれぬ水分山に雨はふらねど 水分神を、幼児の守護神といふこと、如何にも不審らしく思われますが、それは当神社の御祭神は、御主神の外に、尚六柱ありまして御正殿の右方の御殿には天満栲幡千幡姫命、玉依姫命、天津彦火瓊々杵命を奉斎し、左殿には高皇産霊神、少名彦神、御子神を奉斎しあれば、これにてそのいわれは知れます。 まづ右殿千幡比売命と、瓊々杵命とは親子にて、左殿の三柱も、皆親子神であります。殊に栲幡千幡比売命は、高皇産霊神の御子神でありますが上に天照大神の御子正哉吾勝速日天忍穂耳尊に配し給ひて、瓊々杵命を生みまし、保育そのよろしきを得て、聡明英達、この国土に降臨され、皇祚の基を建て給ひ、又玉依姫命は、御姉豊玉姫命にかわりて鵜草不合葺尊を御保育し、後に不合葺尊に配し給ひて、神武天皇を生み奉り、その保育又よろしきを得て神武天皇が終にこの大和の国に於て日本国の紀元を御創立遊ばされし、いとも尊く、いとも目出度瑞祥の存するを以て、この二姫命を幼児守護の神として子守神社とたたへ庶人の尊崇するに至りし事、極めて道理ある事であります。 以上略述いたしましたとおり、水分神社といふは、御正殿の天水分神によりて唱へ奉る称号にて、主として山々谷々より流れ出る荒水を甘水になして、程よく田畑に分賦して、稼植を成熟せしめ給ふ農業御守護の方よりたたへ奉り、子守宮といふは、左右両殿に奉斎せる神々によりてたたへ奉れるにて、上にいへる如く、御祭神に出生保育、幼児守護の大功徳を備へ給へるにより、何時とはなく唱へ奉る称号であります。 祭神の玉依姫の命の御神像は、日本第一の美女神像にて現在は国宝に指定されています。およそ等身大彩色十二単衣をまとい、端麗豊頬でお目の下にあるかなきのか微笑をふくみ慈愛柔かさは、面長下ぶくれの高貴さと相映えて王朝時代の貴女の気品を備え、えくぼまで表出されていて愛児に呼びかけてゐる生きた女神といった感じがあって御子守の神にふさわしく緑豊けき頭髪を中央から左右にわけて両肩から背後に垂れ衣紋は肩先から膝の上へ全体が正三角という美学の原則そのままであります。尚天満栲幡千幡姫命の御神像も重要文化財に指定されてゐます。 因に、現今の本殿は、大正十五年五月、奈良県庁の監督の元に修理の工を起し、昭和二年八月三十日を以て修理完成いたしました。此の要せし工費二万五千余円にて、尚弊殿は引続きて修理の工を起こし、昭和三年九月此修理竣工いたしました。此工費壱萬五千余円でありました。 又、桜門及廻廊は昭和六十一年一月奈良県文化財保存事務所の直営にて解体大修理の工を起し昭和六十二年八月末を以て修覆が終り四百年前再建当時を偲ばせる姿になりました。此の要せし工費壱億弐千萬余円でありました。 神社の宝物としては 神輿 社殿と同時代の物にして八角八ツ棟造であります 湯釜 往昔御湯と申し禊祓に使用せしものなり 総高 二尺九寸 径一尺七寸 紫燈 大小二基あり 大 高四尺四寸余 小 三尺六寸余 湯釜、紫燈は皆鉄にて造らる 釣燈篭 八角にして金銅製一対あり 以上全部慶長九年豊臣秀頼郷の寄進によるものであります 三十六歌仙 此額は道光親王の御筆にして画は狩野永徳の画かれたものです 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
吉野水分神社 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山鎮座の吉野水分神社は、延喜式神名帳に、吉野水分神社大月次・新甞、とある旧社にして、大和四処水分の第一に数えられ、吉野八大神祠の一つで俗に子守明神とも申されます御主神は天之水分(あめのみくまり)大神でありまして、水戸の神の御子神にて、続日本記文武天皇2年夏4月戌午奉馬乎吉野水分神祈雨也とあり、みくまりは水配りにて、山谷より流れ出づる水を、程よく田畑に配分して、灌漑の便を図り給う神であります、もと潅漑の便を図りて稼植の事を掌理し給ふ神でありますが故に、古来風雨順ならず、早天などうちつづきて、稼植を損ふが如きことある時にはいつも朝廷より、馬及び御幣物を奉献して、この神に祈り給ふを例とせられしのみならず、中古神祇官に於て行はせられし祈念祭及び6月、12月の月次祭には、案上官幣に預る大社である事は、延喜式の祝詞に徴しても明白の事実であります、されば当社にては、古来大祭として盛大なる御田植祭を執行し、遠近の氏子崇敬者御恩頼を蒙り、又神恩に報賽するを恒例となってゐます。 又当社の事を、古くより子守宮といひ伝へ神名帳考証などにも吉野水分神社大月次・新甞祭水神今云子守明神とありて、世人はこの神社を出生育養即ち幼児守護の神として崇敬し、既に豊臣秀吉も、この神に祈願して、秀頼を設けその縁によりて慶長年中建部内匠頭光重を奉行とし建築再建に当らしめたるものにて、現に建物全部が重要文化財に編入せれれ居るは、其の当時再建のままの建物であり、それが桃山時代の豪華をもってするので華麗であり、精巧を極めています。国学者の泰斗として有名なる本居宣長翁も、翁の父母が、この神に祈請をこめし霊験により生れたという事が、翁の三度迄も当神社に詣でて報賽せられ、その折詠み残されし和歌によりても明白であります。 吉野山花は見ぬとも水分の 神のみまへをおうがむがよさ 水分の神のちかひのなかりせば これのあが身は生れこめやも 父母の昔思へば袖ぬれぬ 水分山に雨はふらねど 水分神を、幼児の守護神といふこと、如何にも不審らしく思われますが、それは当神社の御祭神は、御主神の外に、尚六柱ありまして御正殿の右方の御殿には天萬栲幡千幡(あまよろづたくはたちはた)姫命、玉依姫命、天津彦火瓊々杵命を奉斎し、左殿には高皇産霊神、少名産(すくなひこ)神、御子神を奉斎しあれば、これにてそのいわれは知れます。 まづ右殿千幡比売命と、瓊々杵命とは親子にて、左殿の三柱も、皆親子神であります。殊に栲幡千幡比売命は、高皇産霊神の御子神でありますが上に天照大神の御子正哉吾勝速日天忍穂耳尊に配し給ひて、瓊々杵命を生みまし、保育そのよろしきを得て、聡明英達、この国土に降臨され、皇祚の基を建て給ひ、又玉依姫命は、御姉豊玉姫命にかわりて鵜草不合葺尊を御保育し、後に不合葺尊に配し給ひて、神武天皇を生み奉り、その保育又よろしきを得て神武天皇が終にこの大和の国に於て日本国の紀元を御創立遊ばされし、いとも尊く、いとも目出度瑞祥の存するを以て、この二姫命を幼児守護の神として子守神社とたたへ庶人の尊崇するに至りし事、極めて道理ある事であります。 以上略述いたしましたとおり、水分神社といふは、御正殿の天水分神によりて唱へ奉る称号にて、主として山々谷々より流れ出る荒水を甘水になして、程よく田畑に分賦して、稼植を成熟せしめ給ふ農業御守護の方よりたたへ奉り、子守宮といふは、左右両殿に奉斎せる神々によりてたたへ奉れるにて、上にいへる如く、御祭神に出生保育、幼児守護の大功徳を備へ給へるにより、何時とはなく唱へ奉る称号であります。 祭神の玉依姫の命の御神像は、日本第一の美女神像にて現在は国宝に指定されています。およそ等身大彩色十二単衣をまとい、端麗豊頬でお目の下にあるかなきのか微笑をふくみ慈愛柔かさは、面長下ぶくれの高貴さと相映えて王朝時代の貴女の気品を備え、えくぼまで表出されていて愛児に呼びかけてゐる生きた女神といった感じがあって御子守の神にふさわしく緑豊けき頭髪を中央から左右にわけて両肩から背後に垂れ衣紋は肩先から膝の上へ全体が正三角という美学の原則そのままであります。尚天萬栲幡千幡姫命の御神像も重要文化財に指定されてゐます。 因に、現今の本殿は、大正15年5月、奈良県庁の監督の元に修理の工を起し、昭和2年8月30日を以て修理完成いたしました。此の要せし工費25000余円にて、尚幣殿は引続きて修理の工を起こし、昭和3年9月此修理竣工いたしました。此工費15000余円でありました。 又、桜門及廻廊は昭和61年1月奈良県文化財保存事務所の直営にて解体大修理の工を起し昭和62年8月末を以て修覆が終り400年前再建当時を偲ばせる姿になりました。此の要せし工費1億2000萬余円でありました。 由緒書 |
吉野水分神社 創立年代は不詳ですがT千年前の延喜式神名帳に既に大月次新嘗めに案上官幣に預かる旧社にて、大和四処水分の第一として記され、吉野八大神祠の一位で俗に子安大明神と申されます。水分とは「水神」の意味で水を程良く田畑に配分する神様で毎年4月3日に五穀豊穣を祈る御田植祭を盛大に行われ、その神事は吉野町の無形文化財として指定されています。 当神社が子守の神になったことについては「水分」が「みくもり」「みこもり」「こもり」と転訛して子供を守る神、「子神」になったといわれています。当神社の本殿は祭神7柱を三つの社殿に奉祀し、その三つの社殿を一つにつないだ珍しい建築様式で水分造りと申されます。現在の社殿は豊臣秀吉が文禄3年に吉野山に花見に来られたとき当神社に祈願して秀頼が授かりそのお礼として慶長3年に再建の工を起こされ、後秀頼が父秀吉の遺志を継ぎ建部内匠頭光重を奉行として慶長9年に完成されたもので、華麗かつ精巧を極めた桃山時代代表的神社建造物として建物全部が国の重要文化財として指定されています。 神社の宝物としては釣り灯籠、神輿、湯釜等秀頼寄進の銘のあるものが社殿に置かれています。御祭神の玉依姫命の神象は日本第一の美女神象として国宝に指定されています。 国学の泰斗として有名な本居宣長はこの子守の社の申し子 として名高く宣長の著である菅笠日記にそのことがよく書かれています 今も子供を授ける神 子供を護る神 安産の守護神として世間の 信仰をあつめ全国各地よりの参詣が絶えません 宣長翁が当社へお礼参りの折に詠まれた歌に みくまりの 神の誓ひの なかしせば これのあが身は 生れこめやも ちちははの昔想へば 袖ぬれぬ みくまり山に 雨はふらねど 社頭掲示板 |