宮前霹靂神社
みやさきかんとけじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】宮前霹靂神社 大和国 宇智郡鎮座

   【現社名】宮前霹靂神社
   【住所】奈良県五條市西久留野町416
       北緯34度22分43秒,東経135度41分16秒
   【祭神】宮前靂霹神
       『大和志』や『大和名所図会』「今雷神と称す」
       本來は自然神としての雷神を祀つたものと思はれる

   【例祭】10月23日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】自然神としての雷神
   【祭祀】江戸時代は「雷公大明神」といわれていたか?
   【社殿】本殿一間社春日造桧皮葺
       拝殿・社務所

   【境内社】春日神社・櫻木神社

金剛山の東麓の高所、産屋峯と称される丘の頂上に鎮座する。ゴルフ場の一番北奥。集落よりは離れている。
創祀の年代、その後の由緒も不詳であるが、本来自然神としての雷神を祀っていたが、井上皇后がその皇子、雷神さんを産まれた産屋明神、オビヤサンとして親しまれ、現在でも安産を祈願する妊婦や安産の報告のための参詣者が多い。
本来、ここの祭神は自然神としての雷神であったとみられるが、後世この地方を一円を風靡した御霊信仰から、井上内親王の御子を雷神にあて、当社地付近を内親王産屋峯との伝説をも産むことになったのではないか。
例祭日に「ショウガ酒」を神前に供え、直会で飲む。また、渡御がおわると御山村の火雷神社へのろしの合図をあげ、この合図をみて、火雷神社の渡御が行われたという。
境内に汚れて判読不能の由緒説明板があった。


宮前霹靂神社(通称)産屋明神

当社は、金剛山東山麓の産屋峯頂上に鎮座し、「延喜式神名帳」(醍醐天皇の命によって延喜5年(905)8月に編纂を開始し、22年後の延長5年(927)に完成奏上された。その内の九巻十巻に当時の神名帳が掲載されている)に登載されていた式内社である。また、井上内親王が当社に御祈願され荒坂で御子を産まれたと伝えられ、土俗に産屋明神と称し、安産の神として信仰され、祈願する参詣がある。
『霹靂』とは、『かみなり いかずち 雷鳴』を意味し、『神解け』(かみとめ・かむとけ)とも表記される。読み方について、諸誌では、カントケの他カミトケ・ナルカミ・サクイカヅチ・ヒャクラク・ヘキレキなどと訓でいるが、いわゆる雷神のことである。
霊安寺町御霊神社の『霊安寺御霊大名神縁起』に『雷神ハ井上ノ皇后、宝亀3年6月23日ニ、宇智ノ郡へ流サレアリシトキ、御懐妊アリシカバ、宇智ノ郷ニテ御産アリキ。ソノ在所ハ大岡、内ニ小山アリ。ソノ山ノ峯ニテ御産アリキ。ソレヨリノチソノ所ヲ産屋ガ峯と云ナリ』とある。井上内親王がお産になられた御子が雷神になられていることから、混同されるが、当社では本来、自然神としての雷神を祀ったものと考えられる。
例祭日には、御神前にショウガ酒を献じ、直会で飲む風習がある。(現在も行われている)また、当日渡御還ってくるとのろしを上げ、これを合図に御山村では日雷神社の渡御が行われたという。
御霊神社社務所

社頭掲示板



宮前霹靂神社

宮前は美夜左岐と読り、霹靂は加美止介と訓べし、(古点にはナルカミ、又サクイカツチとあリ、)和名鈔、(鬼神部)霹靂、(加美於豆、一云、加美止介)○祭神八雷神歟○西久留野村に在す、今雷神と称す、(大和志、同名所図会)、
類社
石見國邇摩郡霹靂神社、同國同郡國分寺霹靂神社、

神社覈録



詳細ボタン

大和国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録