式社は早く衰微して笛吹神社の末社になったと伝。明治3年(1870)には火雷社は笛吹神社内の小祠であった。明治7年(1874)に火雷社を笛吹社に合祀し名を葛城坐火雷神社と改める。本殿後に古墳があり当地が鎭魂・卜巫に関与した古代笛吹連の居住地であるところから、古墳は笛吹連氏の祖先の墓で、神社はその祖廟として築かれたとも推定できる。 古来より鹿占に使う波波迦の木(うわみず桜?)を献上していた。 この木の皮で鹿の肩骨を焼き吉凶を占つた。中古途えたが近世には復活し、孝明天皇の時の大嘗会にも献納されて当時の記録が残る。境内は四層からなり、三層目に拝殿、四層目に本殿があり、樹叢が欝然として古社らしい佇いである。 神宮寺として現社務所のある処に「上の坊」があつた。 |
由緒 当神社の御創建は神代とも神武天皇の御代とも伝えられていますが詳かでありません。然しながら神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の10年に四道将軍を置かれ大彦命を北陸に御差遣され給うた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)この軍にしたがって都をたって寧楽山(奈良山)にお着きになった時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返されて天皇にこのことを報告し、建埴安彦を討ち果たす事を奏上せられた。このことを知った建埴安彦の妻吾田姫は一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十挟芹彦命を遣わされてこれを討滅された。一方大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦いこれを追って和韓川(わからがわ、木津川の上流)の南で川を挟んで対陣して居た時、櫂子の射放つた矢は安彦の胸を貫いてこれを倒したので賊軍は終に降伏して平定した。天皇は大いに櫂子の戦効を嘉賞し給うて天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を賜る。この夜天皇のおん夢にこの天盤笛もつて瓊瓊杵命を奉斎すれば国家安泰ならんとの御告げによつて、瓊瓊杵命を当社にお祭りになったと伝えられています。当社を笛吹神社と申すのは元は火雷神社と天香山命を祭った笛吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられる。延喜式神名帳あるいは特選神名帳・三代実録等の古い記録にあります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
由緒書 御創建 当神社の御創建は神代とも神武天皇の御代とも伝えられていますが詳らかでありません。しかしながら神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の10年に四道将軍を置かれ、大彦命を北陸に御差遣され給うた時に笛吹連の祖・櫂子この軍に従って都をたって、寧楽山(奈良山)にお着きになった時、建埴安彦が兵を挙げて、都を襲撃しようと企てていることを聞いて、直ちに京へ引き返されて天皇にこのことを御報告し、建埴安彦を討ち果たすことを、奏上せられた。 このことを知った建埴安彦の妻・吾田媛は一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十狭芹彦命を遣わされてこれを討滅された。一方大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦い、これを追って、和韓川の南で川を挟んで対陣していた時、櫂子の射放った矢は、安彦の胸を貫いてこれを倒したので、賊軍は遂に降伏して平定した。天皇は大いに櫂子の戦功を嘉賞し給うて天磐笛と笛吹連の姓を賜わった。 この夜天皇の御夢にこの天磐笛をもって瓊々杵尊を奉斎すれば、国家安泰ならんとのお告げによって、瓊々杵尊を当社の御相殿にお祭りになったと伝えられています。 即ち人皇十代の崇神天皇の御代に既に当社があったということで、当社が如何に由緒の古いお宮であるかを伺い知ることができます。 当社を一に笛吹神社と申すのは、火雷神社と天香山命を祭った笛吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられます。 天香山命を祭り、その子孫がこの土地に住んで、その祖先の神霊に奉仕して、その地方の人たちを化育して、その地を笛吹と唱え、大化前代からの鼓吹戸という品部のうち笛吹といわれた人達が居住していた根拠地の一つであったと考えられています。」 ●皇室との御関係 朝廷との御関係は前述通りでありますが、その他天皇が御即位せられた時に御代一代の大祭祀として執り行われる大嘗祭に献ぜられる新穀を作られる斎田を定められる国郡ト定の時、そのト事に用いられる波々迦木は、古くから当社から奉る吉例なっていました。 そのト事はこの波々迦木で真男鹿の肩甲骨や亀の甲を焼いて出来た割れ目で悠紀、主基二つの斎田の国郡を選定するのであります。 延喜式第三に「凡年中御ト料波婆加木皮者仰大和国有封社令採進之」とあり。又、古事類苑その他の古書や大嘗祭の記録に「波々迦木は大和国笛吹の社からこれを請け取るなり」とあるのを見てもその一班を知ることができます。 ●奈良県指定史跡「笛吹神社古墳」 境内御本殿の傍らに棺槨を完備した円形墳があり、槨は粗質の花崗岩を以って積み、玄室の中央に右棺を置く。棺は凝灰岩で出来ていて蓋の突起が特に大である。 横穴式石室は玄室の長さ5.95m、同幅2.34m、羨道長さ5.10m、同幅1.6mあり、笛吹連の祖櫂子の父建多析命の古墳とも伝えられています。 ●奈良県指定天然記念物「イチイガシ林」 鳥居の右側に周囲約3m程の巨木があります。これが天然記念物「イチイガシ林」の内の一本であり、この木が境内に約二十本あり一つの林叢をなしています。 指定した奈良県教育委員会の説明を転載します。 奈良盆地周辺の扇状地の極相はイチイガシ林であることが知られているが、こうした地域は人の生活領域であり、奈良県では古くから開けてきた。 そうした中で笛吹神社の社叢は海抜170m前後の扇状地に残されており、境内南向き斜面のものはイチイガシ林としての保存状態が良い。群落の高さは22m程度あって、低木層には後継樹としてイチイガシが優先し、ほかにヤブツバキ、アラガシ、アオキ等樹種が多い。笛吹神社のイチイガシ林は学術上、教育上、環境保全上極めて重要である。 由緒書 |
葛木坐火雷神社 御創建は神代とも神武天皇の御代とも伝えられるが詳らかでない。 しかし、当社に伝わる旧記には、『笛吹連(ふえふきのむらじ=当社の祭祀を代々受け継ぐ持田家の先祖)の祖 櫂子(かじし)は火明命の後にして崇神天皇の十年 建埴安彦を討ちて功あり 天皇より天磐笛を賞賜せられ笛吹連の名を命ぜられる』とあり、崇神天皇の御代にはすでに当社が鎮座していたことが伺える。 又、平安時代に全国数万の神社より特に霊験灼かな神社を記載した延喜式神名帳には、葛木坐火雷神社二座並名神大月次相嘗新嘗』と記されている。ここに記された神社を式内社というが、延喜式内の神の数は大中小社併せて3132座あり、神社の数は2861社在る。 そのうち71座のみ、祈年祭、月次祭、新嘗祭、相嘗祭に朝廷より幣帛を賜った。御祭神火雷大神、天香山命はこの71座に御加列になり、その上名神大社に列せられたばかりでなく、国の大事には必ず勅使(=天皇の御名代)が参向され幣帛を捧げられた。 火雷大神を奉る火雷神社と笛吹連の祖神天香山命を奉る笛吹神社の二社は元々別に祀られていたようだが、延喜の制以前にこの地に祀られたのではないかと考えられる。 天香山命の子孫 笛吹連が代々この地に住み、祖先神に奉仕し、この土地を笛吹と称えた。その為か、現在も正式な葛木坐火雷神社という名よりも笛吹神社という名の方が地元の人々にも親しまれている。 現在は、火雷大神の御神徳から、火を扱う職業(飲食業・製造業・工場)や消防関係の崇敬を集めている。又、天香山命の御神徳から笛やフルート、尺八等楽器の上達を願う方の崇敬が篤く、全国各地から奉納演奏にみえる方も多い。 公式HP |
葛木坐火雷神社由緒略記 南葛城郡忍海村笛吹字神山鎮座 1.祭神 火雷神及笛吹連の祖天香山命の二座 1.配祀神 大日霊貴尊 高皇産霊尊 瓊瓊杵尊 伊古比都幣命 当神社は元火雷神社と笛吹神社の二社なりしを延喜帝以前に合祀せられたり上古以来朝廷大事をと定せらる毎に笛吹神社より波波迦木を進献するを例とせり。 火雷神は火産霊神とも火之迦具土神とも奉申り火を主宰し給う神にして此大神は宮中大膳職及伊勢神宮斎宮の菓餅所にて奉斉せらる御同神にして菓祖の大御神なり。天香山命は石凝姥命とも奉申り天照皇大神天岩屋戸に籠り坐せる時天香山の波波迦木又竹を功り取り笛を造り吹鳴し亦金を掘り八咫鏡を鋳造し皇祖に奉り大御心を慰め奉りし神に坐して音楽及鉄工業の祖神にして此の御鏡を伊勢神宮の御神体と御仰るものなり。高皇産霊神 大日霊貴尊 瓊瓊杵尊は皆皇祖の大神に坐し伊古比都幣命は御食都神にて所謂衣食住の神なり。 御鎮座は神代とも云い神武天皇の御代と謂と雖も詳ならず社家持田家の家譜に崇神天皇の御代の10年建埴安彦兵を挙げて帝都を襲わんとす仍て大彦命は笛吹連樫子等を率い奈良山に於て安彦の軍と戦いて和邇川の南に於て樫子の射放ちたる矢は安彦の胸を射貫き之を斃す故に賊軍降て平定す依て樫子の戦功を賞して天磐笛及笛吹連姓を給う其の夜天皇御夢に此の磐笛を以て瓊瓊杵尊の神霊を祭れば国家安寧ならんことにより当社の相殿に奉祀せられたると有れば崇神天皇御宇以前の古社にして地誌其の他の古書に笛吹神社とあるは所謂是也。 皇室のご尊崇最も厚かりし官幣大社にして延喜式に名神大月次相嘗新嘗と載せられ毎年数度の案上官幣に預り給いし神社にて卜事に用うる波波迦木を奉る等皇室との関係も亦深かりし事を拝察し奉り得るなり。 大正2年拾月 奈良県。 社頭掲示板 |
葛木坐火雷神社 葛木坐火雷神社 二座 笛吹集落の西方、葛城山東の尾根の端に鎮座の社を、式内名神大社にあてられている。主神に火雷大神と天香山命の二座を、相殿に大日霊貴命・伊古比都幣命(元為志神社祭神)・瓊々杵尊・高皇産霊神を祀る。『三代実録』貞観元年(859)正月27日、正三位勲二等から従二位に昇叙されている。『延喜式』神名帳では、忍海郡三座中名神大社二座として登載され、二座とも祈年祭の外、名神祭・月次祭・新嘗祭にも官幣に預る古代の名社であった。ところが以後記録も全く絶えて衰微したことは「大和志」に、笛吹村笛吹神祠の傍にありとあることでもわかる。明治7年火雷社を笛吹社へ合祀、葛木坐火雷神社と改称、郷社となった。 火雷紳は「日本書紀」にあるように、黄泉国で伊邪那美命の形骸が腐欄して蛆虫がたかっていた時、その胸にいた神で八雷神の一である。天香山命を当社に祀るのは、『姓氏禄』河内国神別に、笛吹連は火明神の後で、その一族吹田連は火明命の子天香山命の後裔とあることに関連するのでなかろうか。 神社の後方に古墳があり、笛吹古墳群が続いている。これを古代笛吹氏の墓とし、鎮魂・卜巫に関与したと考えられる笛吹氏が、自らの租紳の社として当社を創始したとの説もある。社務所の位置に、神宮寺上の坊があったが、『大和志』に、「僧舎在り、名は上之坊、大般若経あり、跋に曰正応元年八月願主僧実胤」とあるように神仏習合の姿を示している。 南花内・薑・新町の笛吹若宮神社は、当社の分霊を勧請して奉斎した社である。 笛吹神社 笛吹集落の西、葛城山東麓に伸びる標高約150メートルの尾根の端に鎮座する旧郷社。『延喜式』登載の名神大社葛木坐火雷神社と同位置同紳祠に鎮座するが、火雷社と笛吹社が本来同一の社であったか並存していたか、あるいは笛吹社の前身が火雷紳であるか否かも明らかでない。 当社のすぐ後方に笛吹神社古墳があり、付近はかって火雷大神・天香山命の後裔笛吹連の本貫地と称されて、その租紳を祀ったのが、古墳と神社の関係を考えさせる好事例といえる。中世以後式内社の所在を失ったが、『大和志』は「在笛吹村の笛吹の紳祠の傍」と記し、式外笛吹紳祠として「笛吹村十四村民家相共祭典」と記している。式内社は全く衰微して笛吹社の末社となるに至った江戸中期ごろの様相が知られる。 明治3年神主持田篤延は小祠となった式内社を確認『二社同所』といっている。その後明治7年、火雷社を笛吹社へ合祀。 奈良県史 |