葛城山の東麓に鎮座する。大和三山を一望にできる地である。 明治40年(1907)駒形神社に大重神社を合祀した。大重神社は東方の字田口に鎮座と伝。駒形神社の祭神不詳(木股神?)。葛城大重神社は葛城犬養神社の誤とする説あり。 享禄五年(1523年)楢原氏が祖とする滋野貞主を祀った滋野神社建立。これをを式内大重神社に比定したもの。 大重神社の祭神には葛城雅犬養連網田が祀られている。この人物は645年6月12日に、伝飛鳥板蓋宮の大極殿において、中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀によって、蘇我入鹿が暗殺されるときに、入鹿を殺せと命じられた人物である。 |
駒形大重神社 本社は、御所市西部を南北に走る、葛城の道(葛城古道)の楢原地区石川にあり祭神は、滋野貞主命外一座不詳とされている。本殿は五尺四寸に六尺一寸、本社は延喜式神名帳にある葛木大重神社を駒形神社に合件して現在のように祀られているのであるという。(大和神社神名帳)境内神社には、春日神社、市杵島比売神社、八幡神社、神明神社、琴平神社の五社がある。 本社の駒形の名のいわれてあるが、地元の古老の話によるとその昔、農耕に使役された馬を紀つたので、その名が今に残つているのではないかとの事であるか、駒形の名のためか馬にかかわる人々が今もこの神社任参拝されるという。 御所市観光協会 社頭掲示板 |
駒形大重神社 九品寺の古い土塀に沿って、流れ落ちている戸開けの渓流を渡ると駒形大重神社の鳥居の前に出る。葛城神社とともに合祀されている。 祭神は滋野貞主命。地元の人々が駒形山と呼ぶ境内山林に深く包まれ、ゆったりと静寂を味わえる神社。 戦前は、供進使を迎えた古い石段が歳月を物語る。 社頭掲示板 |
駒形大重神社(こまがたおおしげじんじゃ) 駒形大重神社は楢原を通る県道御所香芝線(山麓線)から葛城山へ向かい、歩いて5分程の、鬱蒼とした檜林の中に鎮座しています。かつて駒形神社と大重神社は、別々に祀られていましたが、明治40年に合祀されて現在に至っています。 駒形神社の祭神は、村人には木股と呼ばれていますが定かではありません。大重神社の祭神には葛城雅犬養連網田が祀られています。この人物は645年6月12日に、伝飛鳥板蓋宮の大極殿において、中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀によって、蘇我入鹿が暗殺されるときに、入鹿を殺せと命じられた人物です。(中大兄皇子と中臣鎌足との関係及び入鹿を暗殺するまでのことについては日本書記を読まれることをお勧めしますので省略します) ところで、大重神社は延喜式(10世紀初頭に完成)に登場する神社ですが、それよりも約200年ほど古い文献の大和史料には「葛木犬養神」と記されています。醍醐天皇の時代に、藤原時平が平安時代に編纂した延喜式には大重となっているから、犬養を大重と写し間違えられたものと思われます。 しかし、天明4年(1784)の楢原村村鏡によれば、米田俊久氏が享禄5年(1532)に茂野社を建立したと記されていることから、楢原氏の始祖、滋野貞主が祀られていたのではないかとも思われますが、定かではありません。楢原氏は、大和史料作成時よりも後の時代の1370年頃に春日古文書に初めて登場します。 御所市HP |
駒形大重神社 葛城山の東麓に鎮座。祭神は二座で、一座は不詳、一座は滋野貞主とする。旧村社。明治40年(1907)駒形神社に大重神社を合祀したもので、大重神社は東方の字田口に鎮座していたという(神社明細帳)。駒形神社の祭神は不詳であるが、里民は木股様(木股神)と伝承している。大重神社は「延喜式」神名帳の葛上郡「葛木大重神社」とされ、シゲノサンともよばれるため、『神社明細帳』は『文徳実録』にみえる滋野朝臣貞主を祭神とする。しかし「大和志」は『新抄格勅符抄』に「葛木犬養神」とあることから、大重は犬養の誤写で、『日本書紀』皇極天皇3年1月条にみえる葛城稚犬養連綱田らの租神を祀った神社であろうという。また一説には大重は八重・火雷の誤写ともされる(神名帳考証)。天明4年(1784)の楢原村村鏡写(中野家蔵)によると、米田俊久が享禄5年(1532)に「茂野社」を建立したと記し、越智氏系図にも郷内二五文の段銭をもって修造したとされる。結局、楢原氏が租とする滋野貞主を祀った茂野神社を式内大重神社に比定したものであろう。元禄11年(1698)の「葛木名区考」には「茂野社は楢原村西南、駒ヶ谷社東林蔚之処也」とみえている。 寺院神社大辞典 |