葛城一言主神社
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   【延喜式神名帳】葛城一言主神社 (名神大 月次/相嘗/新嘗)大和国 葛上郡鎮座

   【現社名】葛城一言主神社
   【住所】奈良県御所市森脇432
       北緯34度26分44秒,東経135度42分42秒
   【祭神】葛城一言主大神 (配祀)幼武尊
       『大和志料』は一言主神(一名味鋤高彦根命)に雄略天皇を配祀

   【例祭】9月15日 秋季大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】嘉祥3年(850)10月辛亥、正三位 『文徳実録』
       貞観元年(859)正月27日甲申 従二位『三代実録』
       貞観元年(859)9月8日庚申 遣使奉幣、爲風雨祈焉『三代実録』
       正暦5年(994)中臣氏人を遣わして幣帛『本朝世記』
       六国史終了時の神階 従二位勲二等
       明治6年村社
       明治16年3月県社

   【関係氏族】葛城氏
   【鎮座地】古くは葛城山頂にあったのを山下に移したという
        天平宝字8(764)現地へ遷

   【祭祀対象】葛城山
   【祭祀】祭祀は継承されている
   【社殿】本殿一間社流造銅板葺
       拝殿・社務所・宝庫・神饌所

   【境内社】
   【神官寺】神宮寺(一言寺)は神社の東南にあつた

雄略天皇4年に葛城山で狩りを行った時、この神が「神降:かみたち」されたのがこの社地である。一言主大神は自ら「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離つ神、葛城の一言主の大神なり」と神力を示したと古事記に伝えられている。
御鎮座のこの高宮丘は、第2代綏靖天皇の宮址のあったところで、本社から少し北の 丘辺に宮址の碑が立っている。大臣を歴任した巨勢・平群・蘇我各氏の祖に あたる葛城氏の本宗の邸宅もこの地にあり、仁徳天皇の后で履中・反正・允恭三代の 天皇の母后となられた磐媛の生育された地でもある。
境内には蜘蛛塚が有り、土蜘蛛は源頼光に襲いかかって、四天王渡辺綱などに退治された。葛城の土蜘蛛は天孫族以前に当地に住んでいた国栖の民で、葛のつるで編んだ網によって一網打尽にされたのである。
神殿西方の磐境(奥宮)は信仰の対象となり、神聖視されている。
神宮寺(一言寺)は神社の東南にあつた。


由緒

本社は雄略天皇が葛城山で狩りをされたとき、はじめて顕現された神を奉斎するものであります。その次第が『日本書記』に次のように記されています。
天皇、葛城山にかりしたもう。たちまちにタケタカサヒトを見る。来りてタニカイに望めり。かおすがた天皇にあいにれり。天皇これ神なりと知しめせども、なおコトサラに問いてのたまわく、いずこのキミぞ。タケタカサヒトこたえてもうさく、アラヒトの神ぞ、まずキミのミナをなのれ、しかるのちに言わん。天皇答えてのたまわく、あれはこれ幼武尊なり。タケタカサヒトつぎになのりてもうさく、ヤツガレはこれ一事主神なりと。ついにともにかりたのしむ。一鹿をはしりおいて、あいゆずりてやをはなち、クツワをならべて馳はす。コトバいやいやしくつつしみ、ヒジリのごとくあり。ここに日くれてかりやみぬ。神、天皇をおくりたまいて、クメのカワに至る。 このように、天皇と同じお姿で顕現され、鹿狩りをともに楽しまれた神であります。『古事記』も内容は同じでありますが、「あはマガゴトも一言、ヨゴトも一言にいいはなつ神、葛城の一言主の大神なり」と答えておられる。そのためか里びとは俗に「いちごんさん」とお呼び申し、一言の願いであれば何ことでもお聞きとどけ下される神として古くから親しまれ、「無言まいり」の神として広く信仰されています。
御鎮座のこの高宮丘は、第二代綏靖天皇の宮址のあったところで、本社から少し北の丘辺に宮址の碑が立っています。そして大臣を歴任した巨勢・平群・蘇我各氏の祖にあたる葛城氏の本宗の邸宅もこの地にあり、仁徳天皇の后で履中・反正・允恭三代の天皇の母后となられた磐の媛の生育された地でもあります。
その高宮丘の一角にある御鎮座の地を、古くカミタチといいましたが、それは神が降り立ったことからの地名であります。『延喜式』では名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には官幣に預かってきましたが、伝教大師も入唐にあたって本社を祈られたほどの霊験高き御祭神が顕現されたところであり各地の「一言主神社」の総本社でもあります。宮司謹白

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




葛城一言主神社

本社に鎮まります一言主大神は、第21代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に、顕現されました。
一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降(かみたち)」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言(いちごん)さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。
当社は全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社であり、全国各地には当社に参拝するための講があり、現代にも篤い信仰を集めています。

由緒書



葛城一言主神社

御祭神 一言主大神 幼武尊
本社は雄略天皇が葛城山で狩りをされた時雄略天皇4年春「吾は雖悪事、而一言、雖善事、而一言、言離乏神、蔦城之一言主之大神なり」と、この郷(神隆)に顕現された神様を御奉斎しています。
延喜5年制定の「延喜式」では名神大社に列し、祈年・月次・新嘗・相嘗・祈雨のお祭りには官幣に領り、文徳天皇(嘉祥3年をはじめ歴代天皇、特に後光巌天皇から神格「正一位」が贈られる(延文5年)等宮人や歌人にわたる崇敬の念厚く伝教大師(最澄)も入唐に際し祈願された(延暦23年)霊験高き最古の神社であります。
近世では「いちごんさん」と、呼ばれ、一言の願いであれば何事も聴き下さる神様として親しまれ広く信仰されており、また全国各地の一言主大神を御祭神とする神社の総本社であります。

社頭掲示板



碑歌

葛木の其津彦真弓 荒木にも
 憑めや君がわが名告りけむ
  万葉集巻第11
一言主神のいます葛城の山の東麓は、葛城氏の本拠地であった。襲津彦は4世紀末前後に活躍した武将で、葛城氏の祖と仰がれている。
葛城の襲津彦の強弓の荒木にも頼むではないが、信頼してあなたは私の名を人に明かしたのでしょうか・・・・という。
善悪を一言で言い放つという一言主神の信仰と襲津彦の頼もしい伝承とが生きている葛城の地のおとめの歌である。

社頭石碑



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