葛城一言主神社
かつらぎひとことぬしじんじゃ


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【伝説】

『古事記』によると、葛城山で雄略天皇は自分たちと全く同じ格好の集団と出会う。そしてその相手が「悪いことも一言、善いことも一言で言い放つ神。葛城の一言主の大神である」と名乗ると、天皇は恐れおののき、供の者の衣服まで差し出したという。
 ところが、『日本書紀』になると、雄略天皇と一言主神はその場で意気投合し、大いに狩りを楽しんだことになる。天皇と神とが対等の立場で描かれることになる。
 さらに『続日本紀』に至っては、雄略天皇は事もあろうに、無礼があったとして一言主神を土佐へ流刑に処したのである(ここまで遠くに流刑となった神は他にはいない)
。 土佐風土記によれば、その後許されて葛城の高宮付近に祀られたと記されている。  また、今昔物語に登場する一言主神は顔が醜くかったと伝えられ、葛城の怪人と言われた役行者は、修行のため、葛城山と吉野の金峯山の間に岩橋を架けるため、諸神を集めて、架橋工事をさせますが、一言主神は顔が醜かったため、昼は働かず夜しか働かなかったので、石橋は完成しなかった。役行者は怒って、近くの小川のそばの大木に一言主大神を縛り付けてしまったという。


葛城一言主神社

かつらぎひとことぬしじんじゃ 奈良県御所市森脇。旧県社。祭神 一言主大神。古くは葛城山頂にあったのを山下に移したという。『記紀』によれば、雄略天皇4年に、天皇が葛城山に猟をしたとき、対面して同じ様相をした者が天皇と全く同じ所作、言葉を発するものが出現し、天皇は恐れてこれを拝したという。一種の言霊であろう。
貞観元年(859)従二位を賜う。同年9月幣を奉りて雨風を祈られる(『三代実録』)。『延喜式』に、名神大社・祈年・月次・相嘗・新嘗の案上官幣、祈雨の祭に預かる。
正暦5年(994)中臣氏人を遣わして幣帛を奉り、疫疾放火に祈らしむること『本朝世記』にみえる。例祭9月15日。春祭(4月5日)、秋祭(10月5日)。同じ御所市に葛城御歳神社があり、延喜の名神大社でおんだ祭がある。貞観元年従一位に昇叙。
また同市金剛山頂に国の史跡地金剛山葛城神社あり、修験道の道場であった。金剛生駒国定公園の中心。5月25日大楠公祭がある。

神社辞典



縣社 葛城一言主神社

創建年代詳ならず、旧葛木山頂にありしが、今其山下森脇村に移祭る(大和志神社啓蒙)、雄略天皇(卸諱を大泊瀬幼武尊と申す、)4年2月葛城山に登幸し給ふ時、其向の山尾より山上に登る人あり、既に天皇の鹵簿に等しく、其装束の状また人衆も相似て分れず、爾天皇望して問はしめ給はく、此倭國に吾を除きて亦天子はなきを、今誰ぞ如此て行くはと、されば答申せる状も大命の如くなりき、於是天皇大に怒らして矢刺し給ひ、百官の人等も悉く矢刺しければ其人等も皆矢刺せり、故天皇其神なる事を知しめせるを猶殊更に亦問しめ給はく、然らば其名を告さね各も名告て矢弾たむと詔ひき、於是答へて曰く、先づ問はれたれば吾先名告せん吾は悪事も一言、善事も一言、言離之神葛城之一言主大神也と申しき、爾天皇畏で曰し給はく、恐し我か大神顕見大身坐さむとは覚らざりきと曰して、大御刀弓矢を始めて、百官人等の所服紅紐の青摺の衣を脱しめて拝みて献りき、故其大紳手拍ちて其捧物を受け給ひ、天皇還幸の時、長谷の山口に送り奉りき、是一言主神は其時にぞ顕れ坐ける(神祇志料古事記、日本紀)、神社啓蒙に云く、「按諺曰、昔役小角集衆神於葛城金峰間架石橋、其以不早成而小角怒呪一言主縛繋之深谷云、予嘗疑、小角者葛城里民而、一言主者天神裔胤也、神而所縛于人則何以爲神也、伝謂小角能役使鬼神、又曰小角所屏于荒地云、小角霊干鬼愚于人因可怪之、事吾神者、習聞其説、樂其誕而遂至不辮焉、又可痛哉」と、以て役行者に対する迷信の程察せらるべし、文徳天皇嘉祥3年10月辛亥正三位を授け(文徳実録)清和天皇貞観元年正月甲申正三位動二等より從二位を賜ひ、9月庚申幣を奉りて雨風を祈り給ひ(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年、月次、相嘗、新嘗の案上官幣及祈雨の祭に預り(延喜式)一條天皇正暦5年4月戊申中臣氏人を遣して幣帛を奉り、疫疾放火の事を祈らしむ(本朝世記日本紀略)次いで南北朝の時、後光嚴天皇延文5年6月30日正一位を贈らる(社記)、長柄豊田宮戸寺田多田五ケ村の氏神なり(犬和志大和名所図絵)明治6年村社に列し、同16年3月縣社に列す。
社殿は本殿、社務所、宝庫等あり、境内7980坪(官有地第一種)葛城山の麓に位し、幽邃古雅頗る風景に富めり。

明治神社誌料



葛木坐一言主命神社 名神大月次相嘗新嘗

葛木は前に同じ、一言主は比止古登奴志と訓べし、○祭神明か也○吐田庄森脇村に在す、(大和忘、同名所図会)○旧事紀、(地神本紀)素盞嗚尊、児葛木一言主神、(坐倭國葛上郡)日本紀、雄略天皇4年2月、天皇射猟於葛城山、忽見長人、来望丹谷、面貌容儀相似天皇、天皇知是神、猶故問曰、何処公也、長人対曰、現人之神、先称王諱、然後応道、天皇答曰、朕是幼武尊也、長人次称曰、僕是一事主神也、遂與盤于遊田、駈逐一鹿、相辞発箭、並轡馳■、言詞恭恪、有若蓬仙」古事記、(雄略段)一時天皇登幸葛城山之時、百官人等、悉給著紅紐之青摺衣服、彼時有其自所向之山尾、登山上人、既等天皇之鹵簿、亦其装束之状、及人衆、相似不傾、於是、吾先見問故、吾先為名告、吾者、雖悪事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主之大神者也、故是一言主之大神者、彼時所顕也、○釈日本紀云、土左國風土記曰、或説云、時神與天皇相競有不遊之言、天皇大瞋、奉移土左、神随而降、神身巳隠、以祝代之、初至賀茂之地、後遷于此社、而高野天皇宝字8年、從五位上高賀茂朝臣田守等奏而奉迎鎮於葛城山東下高宮岡上、其和魂者、猶留彼国、于今祭祀而云々、
神社啓蒙云、按彦曰、昔役小角集衆神於葛城金峯間架石橋、其以不早成而小角怒呪一言主縛繋之深谷云、予嘗疑、小角者葛城里民而、一言主者天神裔胤也、神而所縛于人、則何以為神也、伝謂小角能役使鬼神、又曰小角所屏于荒地云、小角霊于鬼憑于人固可怪之、事吾神者習聞其説、樂其誕而遂至不弁焉、又可痛哉、
神位
文徳実録、嘉祥3年10月辛亥、進大和國葛木一言主神階授正三位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國正三位勲二等葛木一言主神從二位、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和國一言主神、遣使奉幣、為風雨祈焉、

神社覈録






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