当神社は高鴨・下鴨に対して中鴨社の俗称がある。本社の背後に御年(みとし)山という美しい神体山があり、金剛山の扇状地にひらけた稲田を御守護された神である。 御神名のトシは穀物、ことに稲をさす古語で、稲の神として古くから知られ、朝廷で豊作祈願のために行われた年頭の祈年祭(としごひのまつり)には、まず御歳神の名が読みあげられた。 延喜祈年祭式には「御歳社加白馬・白猪・白鶏各一」とある。 古くから、神官を置かれていなかった。そして、貞観8年(西暦866年)始めて神主を置いたところ、神が祟った。 そこで、現在も、神主はおいていない。(高鴨・下鴨両神社には常駐) |
由緒 御本社の背後に御年(みとし)山という美しい神体山があり、古く御祭神は御年山にお鎮まりになって、金剛山の扇状地にひらけた稲田を御守護された神であります。 御神名のトシは穀物、ことに稲をさす古語で、稲の神として古くから知られ、朝廷で豊作祈願のために行われた年頭の祈年祭(としごひのまつり)には、まず本社の御歳神の名が読みあげられました。その由緒について、『古語拾遺』には下のように記されています。むかし、神代に大地主(おおとこぬし)神、田つくりましし日に、牛のシシをもて田人に食わしめたまいき。時に御歳神の子、その田に至(き)まして、饗(みあえ)に唾(つば)きて還りまして、ありさまを父に告げましき。御歳神、いかりまして、イナゴをその田に放ちたまいしかば、苗の葉たちまちに枯れ損なわれて、篠竹のごとなりき。ここに大地主神、片巫(かたかんなぎ)・肱巫(ひじかんなぎ)をして、その由を占求(うらな)わしめたまいしに、御歳神たたりをします。宜しく白猪・白馬・白鶏(しろかけ)を献りて、その怒りをなごめまつるべしともうすに、教えのまにまに謝(の)り奉(まつ)りますときに、御歳神答えたまわく、実(まこと)に吾が意(こころ)ぞ。宜しく麻柄(あさがら)をもてカセをつくりてカセぎ、すなわちその葉をもて掃い、天押草(あめのおしぐさ)もて押し、烏扇(からすおおぎ)もて扇ぐべし。もししかして出で去らずば、宜しく牛の宍をもて溝口におき、男茎(おはせ)の形を作りて加え、(ここでいう「牛の宍」「男茎」とは、男・女の性の印を意味する古語であって、これは、その神の怒りを鎮め、陰陽の和合を、称えたものである。)ツスダマ・ナルハジカミ・クルミ、また塩をもてその畔(あ)にまきおくべしとのたまいき。すなわち、その教えのまにまにせしかば、苗の葉また茂りて、年穀豊稔(たなつものゆたか)なりき。これ今、神祇官に白猪・白馬・白鶏もて御歳神を祭ることの縁(もと)なり。 以上のことの意味は、人々が、「土」とのかかわりあいにおいて、稲作する時、その耕作に役立つ午(うま)等(農耕器具等の生産手段)を大切にし、心を清くして、農耕等(如何なる仕事においても)をすべきことを、教えたものであります。このことを、別に解釈すれば人と「土」(自然)とのかかわり方の方法等を、教えたものであり、自然との結合、人と人との結合(陰陽和合)をたたえたものであります。 古代における朝廷でも、祈年祭には、この御歳神社にだけ、白猪・白馬・白鶏を、献じられたのも、上のような意味あいにおいてであります。 この御歳神社では、昔は、祈年祭の前日の二月二日、今では、五月三日に、御田祭りが執り行われ、諸々の神事と共に参詣者には、杉葉を守札に包んだ蝗除け等の護符を配布しています。 なお、古書の記録では、仁寿二年(八五二年)には、大和国では、最高の神とされ、正二位の神位を授かり、延喜の制では、名神大社に列した神社として尊ばれた古社であります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
葛城御歳神社 御祭神 御歳神 相殿 大年神・高照姫命 由緒 本社は葛城の地で、鴨族が奉祭した三社の一つで、俗に中鴨神社ともいう。 稲の神として古来から名高く、朝廷で行われた年頭の祈年祭には本社の御祭神を中心として豊作祈願がなされた。 そのために仁寿2年(852)には大和国で本社だけが最高位の正二位の神位を授かるほど篤く尊崇され、後に従一位に昇格され、延喜の制では名神大社に列した。各地の御歳神社・大年神社の総社である。 社頭掲示板 |
葛城御歳神社 〔ご祭神、由緒〕 御祭神 御歳神(みとしのかみ) 相殿 大年神(おおとしのかみ)高照姫命(たかてるひめのみこと) 御神徳 農業神 五穀豊穣の神 万物育成の神 由緒 御祭神はご本社の背後の美しい御歳山に お鎮まりになって、金剛山の扇状地にひらけた稲田を御守護された神であります。 古くは神奈備(かむなび-神の鎮座する山や森)の御歳山に自然石の磐座(いわくら)をたて、神を迎えてお祀りするという古式の形式だったと思われます。 現在の本殿は、春日大社の本殿第一殿を移築したものであります。 御神名の「トシ」は穀物特に稲、またはそのみのりをさす古語で、稲の神、五穀豊穣をもたらす神として古くから尊崇されています。 また「トシ」は年に一度の収穫を基準とした時の単位であることから、事を始める時にお祈りするとよいとされています。 古来より朝廷で 豊作祈願のために行われた年頭の祈年祭(としごひのまつり)には、まず本社の御歳神の名が読みあげられました。 古書の記録では、仁寿二年(八五二年)には、大和国で本社だけが最高の正二位の神位を授かる程篤く尊崇され、後に従一位に昇格され、延喜の制では、名神大社に列した神社として尊ばれた古社であります。 また、水害の度に奉幣された記録もあり、風雨を司る神としても神力を示され、尊信されたものと思われます。 私たちが正月に祭り親しんでいる年神様(としがみさま)は、この大年神、御歳神、若年神といわれています。 鏡餅は御歳神へのお供え物であり、このおさがりのお餅には御歳神の魂がこめられており、これを 「御歳魂(おとしだま)」と呼んでいたものが今の「お年玉」の起源であります。 本社は、鴨氏の名社で、御所市にある高鴨神社(上鴨-かみがも社)、鴨都波神社(下鴨-しもがも社)とともに中鴨社(なかがもしゃ)として親しまれています。 古事記には須佐之男命(スサノヲノミコト)と神大市比売命の御子が大年神で、大年神と香用比売命の御子が御歳神であると記されています。 相殿の高照姫命は大国主神の娘神で八重事代主神の妹神であります。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われています。 御歳神の由緒について、『古語拾遺』には次のように記されています。 「昔在神代に、大地主神、田つくりましし日に、牛の宍(しし)をもて田人に食わしめたまいき。時に御歳神の子、その田に至まして、饗(みあえ)に唾きて還りまして、ありさまを父に告げましき。 御歳神、発怒(いか)りまして、蝗(いなご)をその田に放ちたまいしかば、苗の葉たちまちに枯れ損われて、 篠竹のごとなりき。 ここに大地主神、片巫(かたかんなぎ)〔志止々鳥〕・肱巫(ひじかんなぎ)〔今の俗のカマワ及米占なり〕をして、その由を占求ひ求めしむるに、御歳神たたりを為す。宜しく 白猪・白馬・白鶏を献りて、その怒りを解(なご)めまつるべしともうすに、 教えのまにまに謝(の)み奉りますときに、御歳神答えたまわく、実(まこと)に吾が意(こころ)ぞ。 宜しく麻柄をもてカセをつくりてカセぎ、 すなわちその葉をもて掃(はら)い、天押草もて押し、烏扇もて扇ぐべし。もし如此(しか)して出で去らずば、宜しく牛の宍をもて溝口におき、男茎の形を作りて加え、〔是、其の心を厭(まじな)う所以(ゆえ)なり。〕ツスダマ・蜀椒(なるはじかみ)・呉桃葉(くるみ)、また塩をもてその畔に班置(まきお)くべしとのたまいき。 すなわち、その教えのまにまにせしかば、苗の葉また茂りて、年穀(たなつも)豊稔(ゆたか)なりき。これ今、神祇官に白猪・白馬・白鶏もて御歳神を祭ることの縁なり。 」 神代、大地主神が田を作る日に、農夫に牛の肉をご馳走した。 その事に怒った御歳神は田にいなごを放ち苗の葉を喰い枯らしてしまった。 そこで大地主神は、白猪・白馬・白鶏を献上して謝したところ、そのお怒りが解けたばかりでなく、御歳神は「麻柄で糸巻きを作り、麻の葉で掃い、天押草で押し、烏扇であおぎなさい。 それでも出て行かなければ、牛の肉を溝口に置き、男茎形を作ってこれに加え、(これは男性の印を意味し、その神の怒りを鎮め、陰陽の和合を称えたものである。)ジュズダマ・キハジカミ・クルミの葉と塩を畔に置きなさい」と教えてくださったので、その通りにすれば苗の葉がまた茂って豊作になった。 古代における朝廷でも、祈年祭には、この御歳神社にだけ、白猪・白馬・白鶏を、献じられたのも、上のような意味合いにおいてであります。 公式HP |