葛城御歳神社
かつらぎみとしじんじゃ


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【由緒】

明治24年調査「明細帳」には次のように記している。
「創立年月詳ナラズト雖モ其上代ナリシ事ハ古語拾遣ニ昔在神代大地主神営田之日以牛宍食田人于時御歳神之子至於其田唾饗而還以状吉父御歳神発怒以蝗虫放其田苗葉忽枯損似篠竹於是大地主神令片巫肱巫占求其由御歳神爲崇宜献白猪白馬白鶏以解其怒依教奉謝御歳神答曰実吾意也宜似麻柄作裃之乃似其葉掃之以天押草押之似鳥扇扇之若如此不出套者宜以牛宍置溝口作男茎形以加之蒼■■子蜀椒呉桃葉及塩班置其畔仍從其教苗葉復茂年穀豊稔是今神祇官以白猪白馬白鶏祭御歳神之縁也トアルヲ以テモ察スベシ社號ヲ御歳ト称スルハ御歳神ノ御歳ニ非ス謂ユル年穀ノ義ニシテ御歳神社トハ年穀ヲ主宰シ給フ神ノ社ト申スガ如キ称呼ナル事ハ延喜祝詞式祈年祭ノ詞ニ御歳之皇神等トアルニテ著明ナリ若シ御歳神一柱ナラムニハ等ト云フベキニ非ス現今祭ル処モ大歳神御歳神若歳神之三柱ニシテ共二年穀主宰ノ大神ナルヲ以テ御歳神社トハ称スルナリ延喜神名式云葛木御歳神社(名神大月次新嘗)文徳天皇実録云仁壽弐年四月庚申加大和國御歳神從二位仝年拾月申子加大和國御歳神正二位三代実録云貞観元年正月大和國正二位葛木御歳神ニ從一位謹テ按スルニ日本紀略ヲ始メ其他之諸書ニ朱雀天室天慶三年庚子正月天下之諸神ニ位一階ヲ増シ給ヘル事記載セレバ當社モ此時ニ正一位ニ成ラセ給ヒシ事炳然タリ古老口碑云天正年間迄神領高二百石余有り目今氏子タル持田村即チ昔年ノ社領ナリシト云御歳寺ト称スル別當寺及末院等モ数多有テ社務ヲ司リタリト云現今金剛山ヨリ蝗虫除ノ■ヲ金剛山ニテ出シゝヲ例トシテ終ニ其本ヲ忘レシモノナリト云寛保三年亥六月田畠水帳ニ寺屋敷(末寺ナリシ由申伝フ)念佛講田(付属田ニシテ寺社領ノ内ナリ)御幣田(幣帛料ナリシ由云伝フ)御衣田(神御衣料ナリシ由申伝フ)等之名ヲ存セルヲ以テモ昔年ノ隆盛ヲ知ルニ足レリ明治年月郷社ニ列セラレタリ但傳來之書類ハ御歳寺昔年焼失之節過半焼亡セリ其后仝村金剛寺ヨリ該寺ヲ兼務セシニ金剛寺モ亦焼失シ其節残ル処ノ書類悉皆烏有二属セリト云」


由緒書き

御祭神はご本社の背後の御歳山にお鎮まりになって、五穀豊穣をご守護された神であります。
創祀は神代。古来より朝廷で豊作祈願のために行われた年頭の祈年祭には、まず本社の御歳神の名が読みあげられました。古書の記録では、仁寿2年(852年)には、大和国で本社だけが最高の正二位の神位を授かる程篤く崇敬され、後に従一位に昇格され、延喜の制では、名神大社に列した神社として尊ばれた古社で、全国の御歳神、大年神の総本社であります。
御神名の「トシ」は穀物特に稲、またはその実りを意味する古語で、御歳神は稲の神、五穀豊穣をもたらす神、また、穀物の生長を司る神として古くから崇敬されています。また「トシ」は年に一度の収穫を基準とした時の単位であることから、何か事を始める時にお参りするとよいとされています。
私たちが正月にお祭りし、親しんでいる年神様は、この御歳神、大年神、若年神といわれています。鏡餅は御歳神へのお供え物(依り代)であり、このおさがりのお餅には御歳神の魂がこめられており、これを「おとしだま」と呼んでいたものが今のお年玉の起源であります。
本社は、古代鴨氏が祭った名社で、御所市にある高鴨神社(上鴨さん)、鴨都波神社(下鴨さん)とともに中鴨さんとして親しまれています。

由緒書



葛木御歳神社

奈良県御所市東持田。旧郷社。式内社の葛上郡葛木御歳神社である。
『三代実録』貞観8年2月13日条には「大和国三歳神、旧無神主、而新置之、致崇咎実由此、仍更停焉」とあり、『姓氏録』大和神別には「三歳祝意富太多根子命之後也」と見える。また『四時祭式』に「御歳神加白馬白猪白鶏各一」とあるが、これは先述の『古語拾遺』の説と対応するもので、蝗の害に苦しんだ大地主神が、占により白猪・白馬・白鶏を献じて御年神の崇りを解き、豊かな実りを得られたという。
すなわち神祇官が祈年祭に特に御年神には白猪等を献じたことの起源説話となっている。祭神は大年神・御年神。高照姫命。例祭10月19日。

神社辞典



郷社 葛木御歳神社

祭神 御年神 高照姫大神
創建年代詳ならず、本社は大年神の子御年神を祭る(古事記)此神は蓋穀を知りて大なる功ます神なり(古語拾遺)始め大地主神御田を営りしゝ時田人に牛肉を食はしむ、御年神の子其田に至り御饗に唾して還り座し、父神に其を告す、御年神大に怒り坐て、其田に蝗を放ち給ひしかば、苗葉忽に篠竹なす枯損ねき、故大地主神、片巫肱巫をして占求給へと白しき、故教のまゝに御年神に奉謝給ふ時に、答へ給はく、是は誠に吾御意也、故麻柄を加世岐に作り、其葉を以て之を払ひ、天押草をもて其を押し、鳥扇を以て扇げ、如此して猶去ずば、溝口に牛肉を置き、■子山椒呉桃葉及塩を其畔に班置けと言教給ひき、茲に大地主神其教の随行ひ給ふ時に、苗葉復茂りて年穀に稔リき、是神祇官白猪馬鶏を以て此神を祭る縁也(古語拾遺)と、此如き由緒あるを以て歴朝の崇敬最篤く、称徳天皇天平神護元年大和讃岐等十三戸を神封に充てり(新抄格勅符)文徳天皇仁寿2年4月庚申御年神に従二位を授け、同10月甲子正二位に進め奉り(文徳実録)清和天皇貞観元年正月甲申正二位葛木御歳神に從一位を授けらる(三代実録)初大田田根子の裔本社の祝たりしより後、神主を置く事なかりしが、8年に至りて再び神主を置きしに、神の崇甚だ著るきより、敕して之を停しめ12年7月壬申幣を奉りて、河内の堤重ねて水害なからむ事を祈らしめ給ひ(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上幣帛に預り、祈年祭例幣の外必ず白猪白馬白鶏を加奉らしむ(延喜式)西持田、小殿、佐田、下茶屋村の氏神たり(大和志、大和名所図会)明治6年郷社に列し、凡毎年8月27日28日を以て祭を行う(奈良県神社取調書)。
社殿は本殿、拝殿、社務所等を具備し、境内950坪(官有地第一種)吉野葛城南両山脈の麓御年山にあり。

明治神社誌料



葛木御歳神社 名神大月次新嘗

葛木は加豆良岐、」御歳は美登志と訓べし、○祭神明か也○持田村東に在す、(大和志、同名所図会)○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國葛木御歳神社一座、○古事記上云、大年神、又娶香用比売生子、次御年神、(旧事紀同じ)○古語拾遺云、昔在神代、大地主神営田之日、以牛完食田人、于時御歳神之子、至於其田唾饗而還、以状告父、語歳神発怒以蝗放其田、苗葉忽枯損似篠竹、御歳神為祟、宜献白猪白馬白鶏以解其怒、是今神祇官以白猪白馬白鶏、祭御歳神之縁也、」式一(四時祭上)祈年祭條に、御歳社加白馬白猪白鶏各一、
古事記傳(十ニノ三十八丁)云、旧事紀に、妹高照光姫大神命、坐倭国葛上郡御歳神社と云るは、式に鴨都波八重事代主命神社、次に葛木御歳神社とならべる故に、事代主命の御妹神を、おしあてにあてたる物にて、例の妄ことなり、ゆめまよはさるゝこと勿れ、と云るは尤然る事也、」考証に、與嵩市郡御歳神同名異神也と云るは、旧事紀の妄説に泥める映也、連胤云、御歳神は、もとより年穀を守る神に坐すが故に御年といふ、即ち年穀より出たる御名也、祈年祭祝詞に.御年皇神等能前爾白久、奥津御年乎水沫画垂向股爾泥書寄弖、取作牟奥津御年乎云々、とある御年も稻穀をいふにて、これ御歳神と申すも、稻穀の豊饒を守う給ふよりの御名也、さるを高照光姫大神と称すべき謂れはなき事也、
類社
当国高市郡御歳神社
神位
文徳実録、仁寿2年4月庚申、加大和國御歳神從二位、同年10月甲子、加大和國御歳神正二位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和国正二位葛木御歳神從一位、
官幣
三代實録、貞観12年7月22日壬申、是日遣朝使築河内國堤、恐成功未畢重有水害、由是奉幣大和国三歳神、祈無雨労、以河内水源出自大和國也、
社職
三代實録、貞観8年2月13日己未、神祇官奏言、大和國三歳神、旧無神主、而新置之、致崇咎實由此、仍更停焉、

神社覈録






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