広瀬大社
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   【延喜式神名帳】広瀬坐和加宇加売命神社(名神大 月次/新嘗)大和国 広瀬郡鎮座
   【延喜式神名帳】(論社)式内櫛玉比女命神社を相殿合祀とする
   【延喜式神名帳】(論社)式内穂雷神社を相殿の穂雷神とする
   【延喜式神名帳】(論社)式内於神社を末社水分神社とする
   【延喜式神名帳】(論社)式内讃岐神社を合祀とする

   【現社名】広瀬大社
   【住所】奈良県北葛城郡河合町川合99
       北緯34度35分29秒,東経135度44分54秒
   【祭神】若宇加能売神 (配祀)櫛玉命 穗雷命
   【例祭】4月4日 例祭
   【社格】旧官幣大社 二十二社の内の中七社の一社
   【由緒】崇神天皇の9年広瀬の河合の里長に大神の御託宣で社殿を建
       白鳳4年4月10日大忌神を広瀬の河曲に祭る
       弘仁13年(822)8月3日 従五位
       永保元年(1081)7月10日 正一位
       永正3年(1506)に兵火焼失
       天正年間(1573〜92)豊臣秀長により社領没収
       正徳元年(1711)造営
       明治4年(1871)5月14日 官幣大社

   【関係氏族】大山中曽根連
   【鎮座地】当初鎮座の地から大きくはずれてはいない
        往古以來再三増水や氾濫のために境内の移転が行なわれたであろうと思われる

   【祭祀対象】川を祀る
   【祭祀】創建以来継続して祭祀されている
   【公式HP】 広瀬大社
   【社殿】本殿春日造 正徳元年(1711)の造営
       拝殿・神饌所・勅使殿・社務所

   【境内社】稻荷社、祖霊社、祓戸社、絵馬舎
        水分社、八神殿、饒速比女命社


書紀には「廣瀬乃河曲」、延喜式祝詞には「廣瀬乃川合」と記載されているように、鎮座地は河川の合流点に位置し祭られていることから古来広瀬の大神は水神として崇められている。
当社の大忌祭は龍田風神祭と共に国家的な重い神事として取扱われていた。
この地は佐保川、初瀬川、飛鳥川を始め、曾我川、葛城川、高田川など大和盆地の中心から流れる河川が一点に集まり、大和川となる合流点。物部氏の大和支配の拠点の一つとの見方ができ、長髄彦が仕切っていたのかも知れない。斎主に大山中曽根連韓犬が任じられたのもこの地域は曽根連が根強い力を持っていたことを窺わせる。
古来広瀬の大神は水神として崇められ。境内西側に神宮寺と定林寺があり、かつては定林寺が当社を支配していたという。
広大な神社。平地。参道長く叢林深い。


広瀬神社由緒書

祭神 主神 宇加能売命。相殿 櫛玉命 。穂雷命。
 主神若宇加能売命は、別名を、豊宇気比売大神(伊勢外宮)宇加之御魂神(稲荷神社 広瀬大忌神とも呼ばれ、総て同神である。龍田風神(龍田大社)と深いご縁がある
神徳 広瀬神社の鎮座地は日本書紀に「広瀬乃河曲」、延喜式祝詞には「広瀬乃川合」ときされており佐保川は初瀬川飛鳥川曽我川葛城川高田川等大和盆地を流れる総ての河川が一点に合流する地に祀られていることから、御主神は水の守り神で山谷の悪水を良水に変え河川の氾濫を防ぐ神であり風雨を調和し苗稼を浸潤して、五穀の豊穰を守ることから朝廷を始め万民の食物を守る御膳神である。又広瀬は、屋船豊受姫神ともよび家屋を鎮め奉る宅神で養蚕をも守る神として古来より崇敬が厚い。五穀豊穣、水難鎮護、産業興隆、河川交通安全、安産、除災招福等、多方面に渡る御神徳がある。
創建 崇神天皇9年(前89年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられれる様になる(当社延喜)。日本書紀天武天皇4年4月10日(675年)には、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曾根連韓犬を斉主として、大忌神を広瀬の河曲に祭られた事が記されていて、これが毎年4月4日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




広瀬大社

祭神 主神 若宇加能売命
相殿 櫛玉命・穂雷命
創建 崇神天皇9年
由緒 
大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る。天武天皇が白鳳4(679)に大忌祭を4月7月年2回の祭を始められ以来皇室の崇敬厚い。
永正3年の戦乱で御本殿以下焼失、現在の建物は正徳元年造営される。
御本殿は県文化財指定
神徳 衣食住を守護し治水を司る
特殊神事 砂かけ祭 2月11日
社格 官幣大社

社頭掲示板



広瀬大社

【創 建】
崇神天皇九年(前89年)、廣瀬の河合の里長に御信託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになる。
〜当社縁起より〜
日本書紀天武天皇4年4月10日(675年)に、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曽根連韓犬を斎主として大忌神を廣瀬の河曲に祀られたことが記されていて、これが毎年4月4日と7月4日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。
【史伝・社伝伝説】
天武天皇以降、御歴代の天皇より、風雨の調和、年穀の豊穣等の御祈願がされ国家の瑞祥、または禍害あるごとに、奉告御祈願されました。
【日本書紀】
天武天皇13年秋7月 廣瀬ニ幸ス。
天武天皇13年(684年)秋七月、廣瀬神社に行幸される。
【三代実録】
陽成天皇天慶2年7月26日大和国廣瀬龍田両社倉各一宇ヲ造立ス。同3年6月14日大和国廣瀬龍田云々神社ニ遣シ神財ヲ奉ラ使ム。  
−陽成天皇天慶2年(939年)7月26日、大和の国の廣瀬・龍田の両社に倉を建てさせられた。同13年6月14日、これらの神社に使いを遣わして建立された倉に財宝を納められた。
【延喜式】
凡ソ、春日、廣瀬龍田等社庫ノ鑰匙ハ官庫ニ納置キ、祭使官人祭ニ臨ミテ、請ヒ取ル。事畢リテ返納ス。  
−春日・廣瀬・龍田の社庫の鍵は、神祇官の倉に納められており、お祭りの時派遣される勅使が、社庫の鍵を持ってこられ、お祭りが終わると神祇官に返納された。
【社伝】
社地は元水足池(みずたるのいけ)という広漠たる沼地であったが、里長廣瀬臣藤時に御神託があり、俄に陸地となり、一夜にして丈余の橘数千株が生じた。今拝殿の西側に小池があり、これを水足池という。又、当社の社紋『橘』はこの社伝による。 天武天皇十三年七月、当社行幸のみぎり、新たに廣瀬川(現大和川)に架橋して龍駕を奉納したことから、この所を御幸瀬(ごごかぜ)と称し、橋を御幸橋(みゆきばし)と名付けられた。

公式HP



広瀬大社

日本書紀・天武天皇4年(675)条に記事が見られる広瀬神社は、奈良盆地の多くの河川が合流して大和川となる水上交通の要衝に位置しています。神社の西方には明治の中頃まで“川合浜”という船着場があり、物資の集散地として賑わっていました。
神社に伝わる川相宮縁起では崇神天皇の時代の創建とされています。地理的条件や周辺遺跡の状況から、遅くとも7世紀以前には既に信仰の母体となるものがあったと考えられます。
天武天皇4年に龍田の風神とともに祭祀が行われて以降、戦国時代に途絶えるまで毎年4月と7月に朝廷より使者が遣わされ、祭祀が行われていました。
戦国時代から江戸時代初期にかけて一時衰微しますが、元禄年間に復興し、旧広瀬郡の総氏神として広く崇敬を受けるようになりました。
祭神は主神が大忌神(オオイミ)の異名を持つ若宇加能売命(ワカウカノメ)で、水の神・水田を守る神・五穀豊穣の神として篤く信仰されています
神社に伝わる絵図「和州廣瀬郡廣瀬大明神之圖」は室町時代に描かれたと推定されますが、この絵図には八町四方の四至に鳥居を建てた広壮な姿が描かれています。また、本殿は三殿が並ぶ姿に描かれ、相殿に櫛玉比売命と穂雷命を祀つています。永正3年(1506)の戦乱により往時の建物は灰燼に帰したと伝えられます。現在に残る最古の建物は、正徳元年(1711)に造営された本殿です。
この本殿は一間社春日造の様式をよく伝えるものとして、昭和63年(1988)3月22日に奈良県指定文化財に指定されました。
毎年2月11日に行われる砂かけ祭りは「オンダ」とも称される御田植祭で、砂を雨に見立ててかけ合い、五穀豊穣を祈る祭りです。この祭りは河合町の歴史を考える上で重要なものとして、平成21年(2009)12月11日に河合町指定文化財に指定されました。

社頭掲示板



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