広瀬大社
ひろせたいしゃ


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【合祀式内社】

讃岐神社
広瀬神社の旧摂社散吉社(現在は廃絶となっている)は、散吉郷の南川合明神から勧請した御井神・井精神・大己貴神をご祭神としているし、一説に讃岐国から御井命を勧請して、讃岐神社として祀ったという。

「式内社調査報告」に「(讃岐神社の)祭神を御井命とする説もある。その理由は、廣瀬社の摂社散吉社を勧請したことから出た説であつて、即ち、『廣瀬川合神社略本縁』によると、散吉神殿三座があり、一殿は御井神(木俣神)、二殿は大嵩神(大己貴命)、三殿は井精神(粟井水神)としてゐる。これによると、當社(讃岐神社)は讃岐國の御井木俣神を廣瀬郡に勧請し、本國名をとつて社名に及ぼしたもので、所謂讃岐の御井神は、式内社讃岐國苅田郡粟井神社とあるものであらう。大嵩神は三代實録元慶七年(八八三)十二月の神位叙位に記すところの散吉大建命に當るものであり、粟井神は社傳に所謂、「赤穂の辺アハヰアリ」と述ベてゐる井精神であり、又、讃岐國より勧請せられたもので、即ち、木俣、大己貴、井精の三神を祖つたものであると述ベてゐる。」
穂雷神社
広瀬社旧記によれば、相殿右座水穂雷命をもつて式内穂雷命なりと称してゐる。即ち、広瀬社補佐神二座とし、その中「右西方星座 水穂雷命也 件神者天明玉之分神ナリ秘訣云炊火ノ神也白鳳10年辛巳10月19日己丑造営水穂雷命神殿俗云火大ノ神ト 嘉祥4年辛未正月27日大和國無位水穂雷命新叙正六位上。」とある。


【大忌祭】

国の恒例祭としての大忌祭は、毎年4月と7月に朝廷より使者を派遣して祭られ、龍田風神祭と共に国家祭祀として厚い崇敬を受けていた。
大忌祭は五位以上の王臣各一人と神祇官六位以下一人が使として派遣される祭で、平常は官庫に保管されてゐる錠(じよう)匙(かぎ)を請け取り大忌祭を行ない、終るとそれらを返納することが規定されていた。
この国家的な神事は、古代から永正年間までつゞけられ、その後中絶するに至つたという。


【神仏習合】

江戸期境内西側に神宮寺と定林寺があり、かつては定林寺が当社を支配していたという。定林寺は本尊釈迦をまつり、講堂、食堂、金堂、経堂、弁財天、天神、太子堂の七堂伽藍を容し、聖徳太子四五歳の時の建立と記している。神宮寺は十一面観音、弁財天をまつつている。現在も参道入口の南側小高い丘(今は田畑となっている)が残つており、当時の定林寺の土壇跡であるといわれている。


【文化財】

本殿 奈良県指定有形文化財  昭和63年3月22日指定
   現在の建物は1711年(正徳元年)の造営で当社の中では最も古い建物である。2000年(平成12年)に大改修が行われた。
廣瀬神社の砂かけ祭り(御田植祭) 河合町指定無形民俗文化財 平成21年12月11日指定


廣瀬坐和加宇加乃売命神社 名神大月次新嘗

廣瀬は郡名に同じ、和加字加乃売は假宇也、○祭神明か也、但し鎮坐の時より大忌神と称す、
○廣瀬河合村に在す○式三、(臨事祭)名神祭二百八十五座、大和國廣瀬神社一座、』祈雨祭神八十五座(並大)云々、廣瀬社一座、○江家次第、(祈年穀奉幣)廣瀬(五位)廿二社注式云(中七社)広瀬、(幣数一本)○日本紀神代巻上、一書云、伊弉諾尊曰、我所生之国唯有朝霧云々、又飢時坐児號倉稲魂命、」古事記上云、和久産巣日神、此神之子謂豊宇氣毘売神、
鎮座
日本紀、天武天皇4年4月癸未、遣小錦中間人蓋、大山中曾根連韓犬、祭大忌神於廣瀬河曲、」式八、(祝詞)贋瀬乃川合爾称辞竟奉流、皇神能御前爾自久、御膳持須留若宇加能売能命登御名者白弖云々、
神位
日木紀略、弘仁13年8月庚申、奉授廣瀬神從五位下、文徳実録、嘉祥3年7月丙戌、大和國若宇加乃売命神加從五位上、仁寿2年7月庚寅、大和國若宇加乃売命神加從四位下、同年10月甲子、大和國若字加乃売命神加從三位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從三位廣瀬神正三位、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和国廣瀬神、遣使奉幣、為風雨祈焉、
神財
三代実録、元慶3年6月14日癸酉、遣使於大和國広瀬神社奉神財、
雑事
三代実録、元慶2年7月26日己未、大和国広瀬寵田両社、造立倉各一宇、為納神宝也、〇式三(臨時祭)凡廣瀬社鍮匙者、納置官庫、祭使官人臨祭請取、事畢返納、○中右記、天永2年4月24日、広瀬龍田祭也、召僧事如何、殿下仰云、件事思食忌也、仍被渡御読経於東馬場屋、有御祓、
○前件廣瀬龍田両社鎮座以來同等にして、卿和替る事なし、

神社覈録



広瀬神社

ひろせじんじゃ 奈良県北葛城郡河合町川合。旧官幣大社(現、別表神社)祭神若宇迦売命。『広瀬社縁起』に「崇神天皇の時世、広瀬の川合の里長に大神が託宜したことが天皇に達し、天皇の大御膳神としてこの地に社殿を建て祀った」と伝えている。『天武紀』白鳳4年4月10日の条に、「小錦中間人連大蓋、大山中曽根連韓犬を遣わして大忌神を広瀬の河曲に祭らせる」とあり、翌白鳳5年(676)龍田社とともに「広瀬大忌神を祭る」記事から、常に龍田の風神と対のようにして祀られてきたことがわかる。大忌祭とは、神祇令に「欲令山谷水変成甘水。浸潤苗稼、得其全稔」とある。大宝元年(701)以後、孟夏・孟秋の二季に毎年常例として祭られることとなった。『延喜式』に広瀬大忌祭の祝詞をのせ、四時祭上太政官、式部にも大忌祭の規定を記し、臨時祭には社庫の鍮匙を官庫に納めて、祭りに際して祭使官人が請け取るとみえる。
『三代実録』元慶2年(878)龍田社と並べて、立倉各一宇を造立し、神宝を納めたと記している。弘仁13年(822)従五位下に叙せられ、次第に累進して永保元年(1081)正一位昇階した。『新抄格勅符抄』に封戸を「広瀬川合神二戸」充てられている。延喜の制、名神大社に列し、月次・新嘗の官幣に預かり、平安時代二二社の一に数えられるに至った。例祭4月4日。御田植祭2月12日。これは一般に砂かけ祭りといわれ、まず拝殿の中央で水干を着た川人(村の青年)が苗代を作る所作、籾まきをすると、次に早乙女二人が松葉の松苗をもって早苗をとる所作をする。次に拝殿前の広場の斎田(砂庭)に青竹を立て田人が溝をすき、あぜ作り、牛面をかぶった牛と田人の田おこしの所作をする。それぞれの所作の間に、見物人と田人との間で、もうれつな秒かけ合戦を展開する。これが激しいほど雨がよく降り豊作になるという。

神社辞典






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