龍田大社
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   【延喜式神名帳】龍田坐天御柱国御柱神社二座(並名神大 月次/新嘗) 大和国 平群郡鎮座
          (旧地)龍田大社本宮址
          (旧地)龍田大社御座峰

   【現社名】龍田大社
   【住所】奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1
       北緯34度35分35秒,東経135度41分15秒
   【祭神】天御柱命 国御柱命
       級長津彦命、級長戸辺命 『神社覈録』

   【例祭】4月4日 例大祭 4月29日 みどりの日祭
   【社格】旧官幣大社 二十二社の制
   【由緒】天武天皇4年(676)4月癸未「祠風神于龍田立野」『日本書紀』
       天平2年(730)「龍田神戸」
       宝亀9年(778)風雨調和のため遣使『続日本紀』
       大同元年(806)「龍田神三戸」『新抄格勅符抄』
       承和10年(843)4月遣使『続日本後紀』
       嘉祥3年(850)7月丙申従五位下『文徳実録』
       仁壽2年(852)7月従四位下『文徳実録』 
       貞観元年(859)正月27日 正三位『三大実録』
       仁和3年(887)龍田祭に奉幣
       文禄4年(1595)11月5日 龍田大明神日供米拾貮石
       慶長7年(1602)2月12日 片桐且元「前同額」
       明治4年(1871)5月14日 官幣大社

   【関係氏族】
   【鎮座地】御座峰の地に降臨し、本宮址の地に遷、その後当地に遷という

   【祭祀対象】風神
   【祭祀】創立以来祭祀は継承されている
   【公式HP】 龍田大社
   【社殿】本殿二殿 春日造 桧皮葺
       向つて右(北)が軒を五寸低く造られているが同型同大
       一の御殿(向つて左)が天御柱命、二の御殿(向つて右)が国御柱命を祀る
       拝殿・神輿庫・社務所

   【境内社】龍田比売神社・龍田比古神社・龍田恵美須神社・枚岡神社・白龍神社
        神奈備神社・天満宮・春日神社・住吉神社・三室稲荷神社・高望王社
        皇太神社・岩瀬杜・下照神社


「千早ぶる 神代も聞かず 龍田川 唐くれないに 水くぐるとは」の龍田川は、この神社の前を流れる大和川の一部分の旧称である。祭神は別名を竜田明神又は龍田風神という。崇神天皇の夢にこの神が出現し創立と伝える。
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。
広い社地。丘の頂にあり。
天武天皇は十九回に亘つて遣使し、持統天皇もまた16回遣使奉幣をされている


龍田大社由緒略記

御祭神
天御柱命国御柱命の二座に座します。又の御名を志那都比古命、志那都比売命と申し上げ伊邪那岐命、伊邪那美命の御子神におわしまして天地の大気即ち風力を主宰し給う。よって風の神と称します。
御由緒
第十代崇神天皇の御代に天下の公民が耕作に最も大切なる五穀を始め種々の作物は揮て凶作となり一年や二年にあらずして累年に及び更に悪疫が流行して天下は騒然でありました。天皇が非常に御心を悩ませ給い多くの卜占者に占はしめたが如何なる理由か其の根拠は全く不明に終わりました。茲に於いて御自ら天神地祇を祭らせ給ひて御誓約を行わせられ祈請を込められましたところ御夢に大神が現れ、給い吾は天御柱命国御柱命なり天下の国民の作れる物共を暴風洪水に遭いて凶作となり其他災害の起れるは我が心機の平安ならざるものあり、仍て吾宮を朝日の日向う処夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に造営して吾前を鄭重に斎き祀らば五穀を始め何れの作物も豊穣ならしめ災禍も自ら終息して天下太平の御代と成るべしとの御神教がありましたので直に御悟しに従い社殿を此の地に造らしめ給い厳粛に奉斎せしめられました。其れ即ち当社の起源でありまして今より凡そ二千百年前の事であります。其の後は龍田の大神の御教への如く万作は豊熟し疫病は退散して太平の世の中となりましたので国民は大いに喜び天皇の殖産恵民の広き厚き大御心を仰ぎ尊び奉り深く感謝して和楽の御代の出現を忝く思い打ち揃って家業に勉励する様になりました。斯の如く誠に御神徳の高く広い大神であらせられましたから朝廷の御崇敬は極めて篤く春秋恒例の祭祀を始め臨時の祈願大祭には廃務を仰せ出だされ勅使が参向し弊帛其他貴重なる品々を奉献せられ盛大なる祭典を執行致しました事は古書に見ゆる所であります。
平安朝以後には当社を官幣の明神大社とせられ近畿諸社中朝廷の御崇敬最も厚き十六社又は二十二社の内に撰ばれ社名も実に高く勿論由緒顕著でありましたから明治四年五月十四日に早速官幣大社に列せられました。
大東亜の終戦後は制度の変革がありましたので現在は龍田大社と称し神社本庁の別表神社と成っておりますが一般民衆の信仰は広大なる御神徳に依り遠近各地より其の恩恵を享けて災難なく安全多幸を祈る参拝者或は名所古跡を訪れる文人詩客の参詣も甚だ多い野であります。
御神徳
御祭神は天地の大気、生気、即ち風力を主宰し給へば風神と申上げています。天御柱命、国御柱命と申す御名は天と国とは彦神を天に姫神を国に比して称し奉り御柱とは真柱の事にして天地万物の中心の柱の義で即ち空気或いは風の事で志那都比古命、志那都比売命と申す御名の志那は息長(シナガ)の義で気息(イキ)即ち風の長く遠く吹き亘るを云う、斯くて天候、気象の変化旋転するは大神の御威霊なる風力を基本とし中心とする事なれば農業には暴風洪水の禍害なく五穀豊穣し、航空業を始め航海業、漁業、建築業等に関係を持つ人々は除難多幸を願い現代の如く交通頻繁なる道路を自動車が往来する時運転者には風神龍田大神の守護に依りて誤りなく安全に操縦して無難幸福を祈念する参拝者も近年は著しく増加しております。殊に気息の神として延命長寿を祈願する者は往昔より今に変わる事なく非常に多いのであります。
風鎮祭の由来
当大社の御祭神は前記の通り風気を主宰し給う風神でありまして磯城の瑞垣の宮(第十代崇神天皇)以来朝廷が風水の被害なく無事に五穀を始め総ての作物の豊作、国家の安泰、庶民の福祉を祈願されておられましたが、勅使を参向せしめられて風神祭を厳粛に執行されたのは天武天皇が始めであります。その後は平安朝の後期まで引き続き勅使参向のうえ執行されております。 風神に風鎮め即ち順風を祈る祭祀として風鎮祭と称する様になったとされるこのお祭りは最も丁重を極め神饌幣帛を奉献のほかに彦神に矛楯御馬に御鞍を具えて奉り、姫神には金の麻笥(オケ)、金のATALI、金のkasehiその他御馬に御鞍を具えて奉り十分言葉を尽くして丁重に祭典を執り行ない御神慮を慰め奉り広き厚き恩頼を授けられん事をお祈りしたる大祭であります。武家政治の時代は祭祀も著しく衰えましたが明治の御代に至り大いに復興せられ、大東亜戦争後は毎年恒例の神事として七月の第一日曜を大祭日とし、それの一週間前より七日間継続して朝夕の祭典を執り行ない、最終日に厳粛盛大のる風鎮大祭を斎行して居ります。
岩瀬の杜の瀧祭
当社の例大祭は毎年4月4日でありますがその前日の3日に、岩瀬の杜の沿岸を流れる龍田川(現在の大和川)から生魚を捕獲してこれを唐櫃に納めて本社に持ち帰り、翌4日の当日に神前に供し祭典終了の後に元の川に放魚する祭りで古くから伝わる神事であります。 摂社並びに末社の御祭神
摂社は龍田比古神、龍田比売神二座であります。(本社の一段下神域の瑞垣内南側二社)末社は同一瑞垣ない北側三座で、御祭神は上座は天照大御神と住吉大神、中座は枚岡大神と春日大神、下座は今御前の社と称し高望王の夫人を祀っております。その他境内に末社として白龍神社、龍田恵美須神社、三室稲荷神社、祖霊社である下照神社があります。この他境外末社に神奈備神社があります。
付近の名所旧跡
御座ケ峯と龍田山
御座ケ峯は上古当社の御祭神が降臨せられたる霊地なりと伝承しており現在は三室山の山嶺より東南凡そ1Km離れた頂上の畑地の中央にありて松樹林となっております。又龍田山は三室山に引き続きたる実に広大な山岳地帯を指したる地域の総称であり古来龍田越などの峠もあって起伏多く往来に相当難所の山道であります。
三室山
当社の古い境内地で神奈備の三室山とも称し往昔より春は山桜に若葉の楓とツツジ、秋は紅葉と風景の美を賞賛せられ飛鳥、奈良、平安朝時代には各地より参者遊客文人等の来集甚だ多く社頭は常に人影が絶えなかったと伝えられております
龍田川
古の龍田川は今の大和川で大和平野の諸川を集めて成れる河にして当地立野の里を流れる流域の沿岸に楓樹多く下流の亀瀬まで約五、六粁を世人が龍田川と称し紅葉の名所と謡はれておりました。
(注)文中のtataliは、「瑞」の偏が「木」偏になったものです。又kasehiは、「峠」の偏が「木」偏になったものです。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



龍田大社

社是
当社は、風の神様、始まりの神様を奉斎す。当社創祀に回帰すべく、意(こころ)して、参拝者の祈念に応え、個々の心の安定をはからしめ、渾然一体真の意(こころ)の形成に寄与し、以って大道泰平に貢献す。人は天地五行の気を禀(う)け、以って生を成すにより、一心自ら各々五気の徳備わり、五行の大過不及により五徳を発揮成す事能(あた)わざるに至る。然れば五行を以って大過成す人には之を抑え、不及成す人には之を助く事に努むる。
創建
今から約2100年前、第十代・崇神天皇(すじんてんのう)の時代、国内に凶作や疫病が流行し騒然としているなか、天皇の御夢に大神様が現れ「吾が宮を朝日の日向かう処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつりて…」という御神託を授けられました。その通りにお社を造営すると、作物は豊作、疫病は退散したと伝えられ、これが当社の創建とされています。<延喜式・龍田風神祭祝詞より>
主祭神
天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比古神(しなつひこのかみ))
国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比売神(しなつひめのかみ))
摂社
龍田比古命(たつたひこのみこと)・龍田比売命(たつたひめのみこと)
「龍田」の地名は古く、初代神武天皇即位の頃までさかのぼり、龍田地区を守護されていた氏神様と伝えられる夫婦の神様です。<延喜式・神名帳より>
ご神徳
天と地の間即ち大気・生気・風力を司る神様で、「風の神様」と申します。ご神名の「御柱(みはしら)」とは「天地万物の中心の柱」とされ、別名の「志那(しな)」とは「息長(長寿)」を意味し、「気息の長く遠く吹き亘る」とされます。つまりは天地宇宙の万物生成の中心となる「気」をお守護(まも)りくださる、幅広いお力のある神様です
ご神紋
当社のご神紋は八重の楓となります。当社は風の神様をお祀りしており、楓は文字通り「木」偏に「風」と書き、陰陽五行では風の神様は木気にあたることを示しています。また八重とは、四方八方の八方向を意味し、東西南北とその間の四方向を指します。風の神様の清々しい「気」が天下すべてに行きわたる様にとの祈りが込められています。
末社
上座:天照大御神(あまてらすおおみかみ)・住吉大神(すみよしおおかみ)の相殿
中座:枚岡大神(ひらおかおおかみ)・春日大神(かすがおおかみ)の相殿
下座:高望王(たかもちおう)のお妃(平家の祖先)
*三社ともに創建年代不詳
白龍神社(はくりゅうじんじゃ): 縁結び・浄難災難除けの神様。江戸末期から明治末期まで、御神域に白蛇として現れ信仰されていましたが、一夜にして姿が見えなくなりました。その後、明治41年春、突如にごり池(現在の北葛城郡広陵町(きたかつらぎぐんこうりょうちょう)に白龍として出現されましたので、この地にお迎えし、お祀りしました。
龍田恵美須神社(たつたえびすじんじゃ):
福徳円満・商売繁盛の神様。鎌倉時代兵庫県西宮市の西宮えびす神社より御分霊を勧請(かんじょう)し、やがて江戸時代には荒廃していましたが、昭和62年に復興しました。
三室稲荷神社(みむろいなりじんじゃ):
福徳円満・商売繁盛の神様。創建年代不詳。
下照神社(しもてるじんじゃ):
祖霊社。明治時代創建
飛び地境内地
御座峰(ござがみね):風神様の降臨地とされる聖地です。
三室山(みむろやま):当社奥の宮跡地(万葉集・百人一首など)
岩瀬の杜(いわせのもり):4月の例大祭では水神様(若宇加能売命(わかうかのめのみこと)に鯉を奉納します。
神奈備神社(かんなびじんじゃ):神奈備神、坂根天神、今井天神
龍田大社に関する和歌
嵐し吹く 三室の山の 紅葉は 龍田の川の 錦なりけり <能因法師>
千早振る 神代もきかす 龍田川 からくれないに 水くくるとは <在原業平朝臣>

公式HP



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