龍田大社
たつたたいしゃ


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【社名】

「タツタノアマノミハシラ」「タツタニマスアマノミハシラ」の読みがある。延喜式以外アメと訓むものが古今を通じて多い。


【文化財】

宝相華彩絵奚婁鼓胴(ほうそうげさいえけいろうこどう) 重要文化財(美術品) 平安
奚婁鼓は舞楽や寺院における法会【ほうえ】の際用いられる打楽器のひとつで、首から懸けて腹前に吊るし、一方の手に執った〓【とう】(振鼓【ふりつづみ】)を振り鳴らしつつ、他方の手の桴【ばち】で鼓面を打ち奏する。わが国にはすでに奈良に唐楽とともにもたらされたが、首から懸け吊るすという奏法が定着したのは平安時代中期以降とされている。
 本件は檜材製、表面に宝相華の華麗な彩絵を施した奚婁鼓の鼓胴で、全体の構造は、内刳【ぐ】りを施した半球形の二材を矧【は】ぎ合わせ轆轤挽【ろくろび】き成形し、上下鼓面部に響孔【ひびきあな】をあけ革を張って(現在はほとんどが欠失)竹釘で留めたのち、素地全体に布着せ・漆下地を施したうえ、白土地彩絵している。彩絵は胴部上下区を丹地、中区を朱地とし宝相華文を描くが、その花弁は墨・群青・緑青・朱・白土を用いた暈繝【うんげん】彩色によって表され、弁脈や蔓は截金【きりかね】線で表されている。鼓面部および胴部の紐帯【ちゆうたい】には金箔が押されている。なお胴部の二か所には紐金物が打たれている。
 いわゆる紺丹緑紫【こんたんりよくし】ふうの配色や、花弁の輪郭に引かれた白線、朱・丹の暖かみのある色調、繊細な截金線など、平安時代後期の特色が豊かで典雅な趣にあふれており、また紐金物も、静岡・MOA美術館蔵彩絵曲物笥【さいえまげものけ】(重要文化財・平安時代)のものに類似するなど古様を示している。  この種奚婁鼓胴の遺例としては、鎌倉時代以降の数例が重要文化財の指定を受けているが、なかでも本件は遺存の状態が良好であるとともに、緻密な彩絵技法や優美な賦彩、整美な紐金物など総体の作行も優れており、かつ現存最古の奚婁鼓胴として貴重な存在である。


【風鎮(ふうちん)大祭】

この風鎮(ふうちん)大祭は風しずめのまつりとされ、風水害、凶作、疫病が流行しこれらを鎮める為に風の神を龍田に祀りお祭りが行われたのが最初です。歴史は古く675年には国の祭りとして行われていたと日本書紀に記されています。砂かけ祭りの行われる広瀬神社の水神が水による生産の神であるのに対し、龍田大社の風神は悪風を防ぐとともに、荒雨を防ぎ、国家を鎮める神として祭られ対になっています。
 もともと日本は稲作文化が中心で、古代の人々は台風や水害の被害に遭えばたちまち生きることができないのです。だからこそ風水害を避け、豊作になってくれることを祈っていたのでしょう。
 午前中は、風鎮祭が行われます。本殿は2社あります。「志那津比古神(しなつひこのかみ)」の男神と「志那津比売神(しなつひめのかみ)」の女神を祀っており、これが風の神、風の女神にあたります。本殿の扉がゆっくり開かれると、不思議な事に空気感が変わります。
 神饌(しんせん)奉納の後、続いて祝詞(のりと)が述べられます。内容を簡単に要約すると「神に五穀豊穣と風水害のないようにしていただければ、秋の祭りには産物を奉納いたします」という事なのだが、古代よる伝わるとされるその言い回しはとても丁寧で、神への五穀豊穣への切実な願いを感じます。
 そして次に龍田神楽が奉納されます。この神楽は最初、鈴のみの舞、続いて両手に刀を持った舞、最後に片手に鈴、片手に剣を持って舞います。もちろん真剣です。 両手に剣のときは隣に当たらないか見てて冷や冷やしますが、息が合っています。
 受けた印象は剣で厄を払うといった感じでしょうか、非常に珍しいので見入ってしまいました。地元の坂本家のみが受け継いでいるのだそうです。ここは本殿と拝殿の間になりますので、一般席からは見えませんが、この龍田神楽は午後よりもう一度拝殿で舞われるので、そちらを見ることができます。
http://www.kasugano.com/kankou/summer/tatsuta_fuuchin.html


龍田大社

たつたたいしや 奈良県坐駒郡三郷町立野。旧官幣大社(現、別表神社)祭神天御柱命・国御柱命を祀り、摂社に龍田比古龍田比売神社がある〇『延喜式』祝詞に「龍田風神祭祝詞」があり、これによれば崇神天皇のとき、五穀凶作が続いたので、天皇が悩み、夢にこの神が現われお告げがあったので創祀したとあるが、天武紀4年4月10日条に小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして風神を龍田の立野に祀らせた記事がみえる。大宝元年(701)神祇令に孟夏、孟秋に広瀬社の大忌祭とともに祀られる例となり、風水の害なきを祈るものである。これは、『延喜式』によって詳細を知られるが、その四時祭上に供料の細目と、勅使の位階、員数等を明記し、「太政官式」・「式部式」にも記載している。更に臨時祭式にも春日、広瀬等とともに社庫の鍮匙(やくし)については官庫に納め置き、祭に臨んで祭使が使用にあたることを記している。
天武4年以降毎年広瀬とともに4月7月の祭を記載しており、嘉祥3年(850)従五位上を叙せられたのを初めとして、神階昇叙し貞観元年(859)従三位となる。同年、大和の水分神山口神26社とともに風雨を祈るため幣を奉られている。天平2年(730)『大和国正税帳』に「龍田神戸稲肆伯参拾束捌把」、『新抄格勅符抄』に「龍田神三戸」とみえ、文禄4年(1594)大和郡山城主増田長盛の「日供米拾弐石」を先規の通りとすること、また慶長7年(1603)片桐且元によって同額を安堵されている。
延喜の制、名神大社、月次・新嘗の幣に預かる名社で「龍田坐天御柱国御柱神社二座」とみえる。また、永保元年(1081)二二社の一に選ばれた。現在、農業・航空機・船舶・航海・漁業等、風に関係する者の信仰が篤い。例祭4月4日。前日に本社から○・五キロにある滝津瀬川で梁を張り魚を取る。それを岩瀬の森の川神に神饌を供え奉告の後、荷桶に入れて本社に担ぎ帰り4日奉献の後、もとの河に放魚する。これを滝祭りという。7月4日風鎮祭。

神社辞典



龍田坐天御柱國御柱神社二座 並名神大月次新嘗

寵田は多都太、』天御柱國御柱は阿女乃美波之良久爾乃美波之良と訓べし、○祭神級長津彦命、級長戸辺命、○立野村に在す、今本宮と称す、〇式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和国龍田神社二座、」祈雨祭神八十五座(並大)云々、龍田社二座、○江家次第、(祈年穀奉幣)瀧田、(五位)」廿二社注式云、(中七社)籠田、(幣数二本)○日本紀神代巻上、一書云、伊弉諾尊曰、我所生之國唯有朝霧而■満之哉、乃吹発之氣化為神號曰級長戸辺命、(亦曰級長津彦命)是風神也、」古事記上云、既生國竟、更生神、次生嵐神名志那都比古神云々、(古事記伝云、師説に龍田風神祭祝詞に、此神は、比古神比売神ならび坐こと志るければ、古事記日本紀、たがひに一神説たるべしと云れき、といへり、)
神皇正統記云、瀧祭の神と申すは龍神なり云々、一には大倭の龍田神は、この瀧祭と同躰にます、此神のあづかり給へる也、よりて天柱國柱といふ御名ありともいへり、」廿一社記にも、廣瀬社風神ニ座ス、龍田社同風神ニ座也、風神祭ト云モ此二神祭也、と云て別に龍田社を挙ず、故に廿一社なり、こはいかなる説により給へる事か、既ぐ本朝世紀に見えたる、天慶4年8月13日祈年穀の時、十六社の内に龍田社も加はりて、次々洩たる事なきをや、不審の事にぞ侍る、猶広瀬郡広瀬社の下考へ合すべし、
鎮座
日本紀、天武天皇4年4月癸未、遣小紫美濃王、小錦下佐伯連広足、祠風神于龍田立野、
神位
日本紀略、弘仁13年8月庚申、奉授龍田神從五位下、文徳実録、嘉祥3年7月丙戌、大和国籠田天御柱命神、國御柱命神、並加從五位上、策命曰云々、仁寿2年7月庚寅、大和国天御柱命神、國御柱命神加從四位下、同年10月甲子、大和国天御柱命神、国御柱命神、加從三位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從三位龍田神正三位、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和国龍田神、遣使奉幣、為風雨祈焉、
神財
三代實録、元慶3年6月14日癸酉、遣使於大和国龍田神社奉神財、
雑事
三代実録、元慶2年7月26日己未、大和国広瀬龍田両社、造立倉各一宇、爲納神宝也、
〇式三(臨時祭)凡龍田社庫鍮匙者、納置官庫、祭使官人臨祭請取、事畢返納、○中右記、天永2年4月24日、廣瀬籠田祭也、召僧事如何、殿下仰云、件事思食忌也、仍被渡御読経於東馬場屋、聊有御祓、

神社覈録






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