矢田坐久志玉比古神社
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   【延喜式神名帳】矢田坐久志玉比古神社二座(並大 月次/新嘗) 大和国 添下郡鎮座

   【現社名】矢田坐久志比玉古神社
   【住所】奈良県大和郡山市矢田町965
       北緯34度39分6秒,東経135度44分52秒
   【祭神】櫛玉饒速日神 御炊屋姫神
       大正2年までは天太玉命と誉田別命を祭神『神社明細帳』
       矢田部氏が祖神櫛玉饒速日命を祀つた『神名帳考証』『神祇志料』『神社覈録』『特選神名牒』
       此の地の玉作氏が、祖神櫛玉彦(天明玉命)・櫛玉姫(天太玉命)を祀つた『大和志料』

       櫛玉饒速日命・櫛玉命のいずれが当社本来の祭神かは判断できない
       当社に関わる祭祀氏族の変動(矢田部氏→玉作氏)に伴い、祭神も変化したのではないか。

   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】県社
   【由緒】大同年間(806−810)諸社神封で二戸『新抄格勅符抄』
       貞観元年(869)5月27日には從五位下より從五位上『三代実録』
       享保9年(1724)金剛山寺と同寺配下にあつた東明寺が
         神職を兼ねていた「金剛山寺明細帳覚」
       昭和13年10月18日県社

   【関係氏族】矢田部氏 物部氏
   【鎮座地】神社の東側の向山が神奈備山とし
        ほぼこの位置より移転なし

   【祭祀対象】神奈備山/氏祖
   【祭祀】江戸時代は「矢落大明神」と称す
   【社殿】本殿春日造、桧皮葺丹塗
       室町中期を下らないものと推定され、重要文化財
       八幡神社本殿も丹塗の春日造・桧皮葺。本社よりやや小さく造りも古風
       鎌倉末期の建築で本社と同時に重文に指定された
       社務所、手水屋 楼門 拝殿

   【境内社】瀬下都姫命神社 若宮社 天磐船

饒速日命が天磐船に乗って降臨した際3本の矢を射て、2の矢が落ちたと伝う。飛行の神。平地。集落の奥にある。
神社の東側の向山が神奈備山と思われる。
この社を物部氏本宗の社とするが、次第に本来の物部氏の神社であるこの神社は忘れ去られていったと言う。
しかし、氏子の中に宮座が残っており、饒速日尊、降臨の際に防衛[ふせぎまもり]として天降り供え奉った三十二の供奉衆の子孫であるとの強い伝承が残っているようで、神社境内に「舟人神」と称する天磐船の石(磐船の欠片、または天磐船の降りた際地下から盛り上がってきた磐とも)とされる場所があり、宮座の人々は毎年この磐に縄を巻き付けて互いの出自を確かめ合う。



参拝のしおり

当社は、奈良県大和郡山市矢田町矢田965番地に鎮座しており、櫛玉饒速日命(にぎはやひのみこと)、御炊屋姫命をお祀りしている。延喜式内社で古くは矢落大明神又は矢田の太宮と称し、神裔(しんえい)は雄族物部氏である。創建年代は不祥であるが六世紀前半期の頃までは畿内随一の名社として栄えたと伝えられ当地方最大の古社である。古典に「天磐船に乗りて大空を翔行(とびゆけ)り」の古事に基づき航空祖神としてぎ斯界(しかい)関係者の崇敬を聚(あつ)め恩恵を蒙っている。本殿二棟は重要文化財で国宝である。主な祭日 例祭10月10日、航空祭9月22日、特殊神事、網掛祭1月8日、筒粥占祭2月1日。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




矢田坐久志比古神社

御祭神:櫛玉饒速日命、御炊屋姫命
 祭礼日:例祭・10月第四土日、綱掛祭・1月8日、筒粥占祭・2月1日、航空祭・9月20日
 境内社:八幡神社、春日若宮神社、天磐船、八坂神社(境外)、主人神社(御旅所)
 由緒:旧懸社。延喜式内社で、古くは矢落大明神 又は、矢田の大宮と称し、神裔は雄族物部氏である。
 創建年代は不祥であるが、六世紀前半期の頃までは畿内随一の名社として栄えたと伝えられ、当地方最大の古社である。古典に「天磐船に乗りて大空を翔行り」の古事に基づき航空祖神として、斯界関係者の崇敬を聚め恩恵を蒙っている。
 本殿二棟は重要文化財

社頭掲示板



矢田坐久志比古神社

櫛玉饒速日命は御別名を、天照国照彦火明櫛玉饒速日命と称し奉ります。
 御父神は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(天之忍穂耳命・天照坐皇大神の御子)、御母神は萬幡豊秋津師比売命(栲幡千千媛)であられます。御父神が天津神の命により、天孫降臨に先立ち豊葦原中津国仮平定のために天降ろうとされたときにお生まれになりました。御父神は天津神に御子神を御自分の代わりに天降らせ給えとお願いになりました。
 天津神は命を御召しになり天璽の十種の神宝を御授けになり、『若し痛むところがあれば此の十種の神宝を使って、一二三四五六七八九十と唱えて打ち振りなさい。そうすれば死者も甦ります』と申され、あわせて天羽羽矢・天羽羽弓(天歩靫)をも授けられました。三十二従神を率連れ天磐船に御乗りになり、初めに河内国の河上の哮峯に天降られ、その後大和の鳥見の白庭山(現在地にして御終焉の地)に遷り住まわれます。
 命は天磐船に御乗りになり、天空を翔け巡りながら三本の天羽羽矢を射放たれ、矢の落ちたところを宮居と定め天降られました。一の矢は神社南方約五百メートルに、二の矢は神社境内に、三の矢は神社北方約五百メートルに落ちました。このことから御社号を『矢落神社・矢落大明神』とも申し上げ、この地を『矢田』と呼ぶようになりました。土豪の長髄彦(登美能那賀須泥毘古)の妹の御炊屋姫(登美依毘売)を娶り妃とし、宇摩志麻遅命(宇美真手命・建国時の近衛長官)をお生みになります。
 神武天皇が東征されると、命は既に平定を済まされていた畿内一円を御渡しになられます。天皇は東征出発の前、天璽を授かった日の御子が、天磐船に乗られ、東の四方を青山に囲まれた美地に天降られていることを塩土老翁(塩椎神)から御聞きでしたので、命の忠節を殊の外喜ばれ、神剣を御授けになり大勲に報い給われました。御神裔の物部氏の崇敬篤く、御創建当初より六世紀前半期に至る間は畿内随一の名社として栄え、御社殿は宏壮美麗を極めた当地方最大の古社でありました。
 命と共に降臨した一族はこの地に定住し、命没後、御魂を安めるため社を建て祭祀を執り行っています。毎年一月八日に御神域前面に大綱を掛ける『綱掛祭』は、雄龍雌龍になぞらえた二本の太い綱を用意し、御神前にて更に一本の大しめ縄にないます。水神としての龍の力を仰ぎ、適度な降水による農作物の豊かな恵みと水運の安全を祈願し、雄龍雌龍が結ばれることによる子孫の繁栄を祈ります。天磐船の降りた処に守護神の龍神を示す縄を幾重にも巻き、命への永遠の側近警護をお誓いします。
 天璽の十種の神宝の御神徳から治病息災健康長寿の神・医術の祖神『医療祖神』と共に、近年は天磐船の故事から飛行の祖神『航空祖神』として、航空関係者・旅行者の崇敬が寄せられています。楼門のプロペラは昭和十八年、大日本飛行協会大阪支部から奉納された中島飛行機製の陸軍九一戦闘機のもので、堀丈夫陸軍中尉より『神威赫奕』と揮毫されています。

由緒書



矢田坐久志比古神社

矢田町横山集落の北東部に鎮座する。『大和志』添下郡神廟に『延喜式』神名帳登載の式内大社と記す旧県社で、櫛玉饒速日命・御炊屋姫命を祀る。『新抄格勅府抄』大同元年(806)の諸社神封の条に「矢田神二戸大和」とあり、神戸二戸をあてられていたことを見ると当社はそれ以前に創祀されていた古社であることが分かる。『三代実録』貞観元年(869)正月27日に従五位下より従五位上を授けられ、延喜の制で大社に列し案上官幣に預かったこの地方の名社であった。  『姓氏録』大和国神別に矢田部は饒速日命七世孫大新河命の後とあるから、この地方に居住した矢田首が自らの祖神として、『日本書紀』巻第三の神武天皇即位前紀戌午12月にみえる櫛玉饒速日命とその妻神御炊屋姫命を祀ったとみられる。『大和志』に矢落明神と称すとあり、境内の寛文11年(1671)の石灯籠にも矢落大明神と刻されている矢落とは、饒速日命の天降りの時、三本の矢を射てその落ちた所に宮居したとの伝によったものという。  春日造の本殿は、室町中期を下らぬ様式と考えられ、鎌倉末様式といわれる境内社の八幡神社社殿とともに重要文化財に指定されている。

寺院神社大辞典



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