独立の小山の麓に鎮座する。 もと南方600mに在る上出の聚落に鎮座していたのを、中世に至つて立磐神社の鎭座する標高約300mの境内に安置したと云う。立磐神社は延喜・神名帳にその名をとどめる「天乃石吸神社」に比定される巨大な陽石を神体とする。柳生町山脇に存在する式内社「天乃石立神社」とともに巨石信仰を物語る。 祭神も多くの山口神社の例よりみて、本来は大山祇命を祭祀したとすべきであろう。現在の鎭座の地は、山口に該当するとは考えられず、古老の口伝の如く上出の聚落に鎭座し、その後巨石信仰のあつた立磐神社の境内に移建し、式内社としての祭祀を今に伝えたとすべきであろう。 8月に行われる大柳生太鼓踊りは背中にご幣木を飾り、胸に小鼓を吊り、白鉢巻きといういで立ちで踊る勇壮な奉納踊り。県の無形民俗文化財に指定されている。 |
夜支布山口神社 大柳生の氏神で、平安時代の延喜にあらわれている古い社です。境内にある摂社立盤神社の本殿は、春日大社の第四殿を、延享四年(1747年)に、ここに移したものです。この神社には、一年交代で集落の長老の家に神様の分霊をむかえる「回り神明」と言う、珍しい行事が伝えられており、700年の伝統をもつ大柳生の太鼓踊りが奉納されます。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
郷社 夜支布山口神社 祭神 素戔嗚命 柳生は和名抄に「添上郡楊生郷、訓也木布」と見え、三代實録には養父に作り、後世柳生に作る、抑本社は創建の年代詳らかならざれども、延喜式内の古社にして、延喜式神名帳に夜支布山口神社と見えたり、文徳実録に文徳天皇嘉祥3年10月辛亥「大和國夜支布山口神に神階を進め從五位下を授け、三代実録に、清和天皇貞観元年正月27日甲申、大和国從五位下夜支布山口神に正五位上を授け奉る由見えたれば、文徳天皇以前の建立に係れること明かなり、又清和天皇貞観元年9月8日、庚申風雨の御祈に依つて、使を遣はし幣を奉り(三代実録)、更に醍醐天皇延喜の制大社に列り祈年、月弐、新嘗の案上官幣祈雨の幣帛に預れり、神社覈録に、「式一(四時祭上)祈年祭條祭神に、養布山口加馬一匹、同三(臨時祭)祈雨祭神八十五座(並大)云々、養布山口社一座」と見ゆ、又大和志料に「大山祇命にして、当国十三山口其の一なり」と見ゆ、俗に天王社と称す(大和名所図会大和志)明治6年郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿、社務所、参籠殿等の建物あり、境内372坪(民有地第二種)にして、伊賀の諸山に連り、 老樹森々として繁茂し、荘厳なる神域たり。 明治神社誌料 |
夜支布山口神社 奈良市大柳生町。旧県社。素盞鳴命を祀る。夜支布は養布・養父とも表記される。例祭10月18日。「廻り明神」の賀当太鼓踊は有名である。 神社辞典 |
夜支布山口神社 大月次新嘗 夜支布は假字也、和名砂、(郷名部)楊生、(也木布)山口は夜麻久知と訓べし、○祭神山神大山祇命〇大柳生村に在す、今天王と称す、(大和志、同名所図会)〇式一(四時祭上)祈年祭條に、養布山口加馬一匹、」同三、(臨時祭)祈雨祭神八十五座(並大)云々、養布山口社一座、 類社 山城國愛宕郡賀茂山口神社の下見合すべし、当國に十三箇社あり、 神位 文徳実録、嘉祥3年10月辛亥、進大和國夜岐布山口神階授從五位下、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下夜岐布山口神正五位下、 官幣 三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和國養父山口神、遣使奉幣為風雨祈焉、 神社覈録 |