推古天皇元年(593年)2月3日、大三輪君白堤が勅命により神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴姫命を祭神として奉斎したとされ、奈良市最古の神社という。神祇令集解の頃に、大神氏宗の祀るところであった。 その後、春日社の管掌にかかるものであつたが、明治12年に大神社の摂社に移管されるに及び、大神神社の管轄として今日に至る。 当社には明治7年現在で氏子がなく、宮座もないので、漢国神社の氏子有志が昭和6年前後に奉賛会を作り奉仕することとなつた。 三枝祭の名は白酒黒酒(しろきくろき)の酒樽(さかたる)に本社三輪山でとれた笹百合の花(古名さいくさ)を飾ってお祭りするところから起こった。 |
子守明神率川神社縁起 御祭神 玉櫛姫命(御母神)向って右殿 媛蹈鞴五十鈴姫命(御子神) 中殿 狭井大神(御父神)向って左殿 御例祭 六月十七日三枝祭(さいくさのまつり)(ゆりまつり) 鎮座地 奈良市本子守町十八番地 当神社は飛鳥時代、推古天皇の元年(五九三)二月三日、大三輪君白堤(しらつつみ)が勅命によってお祀り申し上げた奈良市に於ける最古の神社であり、社殿は県の指定文化財となっています。 媛蹈鞴五十鈴姫命は、神武天皇の皇后様として御坤徳高く、よく内助の御功をおたて遊ばされました。全国の神社の中で皇后様を主祭神としてお祭りした神社は珍しいことであります。 狭井大神は、日常必需の一切の守護神であり、縁結びの神であらせられる大神神社の大物主大神、また出雲の大国主神と御同神であります。 子守加護の神として中央に主祭神の御子神様を、左右には、ご両親の神様が御守護なさる姿で御鎮座されてますから、古来より一般に広く、子守明神と申上げ、鎮座地を本子守町と言って、安産、育児、息災延命の神様として特にご婦人方の信仰が厚く、多くの参拝があります。 三枝祭 このお祭は「さいくさのまつり」と申し、毎年六月十七日に執り行なわれる当社の御例祭であります。このお祭の起源は古く文武天皇の大宝年中に属し、御本社で行なわれる鎮花(はなしずめ)祭と共に特殊な神事として由緒深いお祭であります。その名の起ったわけは三枝の花(笹ゆりの花)をもって酒樽を飾ってお祀りするからであると思われます。 むかし当神社の御祭神媛蹈鞴五十鈴姫命が本社三輪山の麓、挾井川のほとりに御住居になり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き乱れていたことが国史に見えておりますが、その御縁故によって後世御祭神をお慰め申す為に酒樽(さかだる)に笹ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。笹ゆりの花は本名佐韋(さゐ)といいますが、三枝祭はこの故事によるのであります。 このお祭は古くから国家の祀典として重んぜられ、光孝天皇の御代には勅田を奉られ、醍醐天皇の御代、この祭儀は神祇官から幣物を祝につけて日をえらんで行なわ、れ、又馬寮(めりよう)から神馬を献られるなど非常に丁重なお祭が行なわれたのでありますが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の祭儀に復興せられ、現在に及んでいるのであります。 このお祭の特に異っている点は、黒酒(くろき)、白酒(しろき)を「鱒(そん)」「缶(ほとぎ)」と称する酒樽(さかだる)に盛り、その酒樽の周囲を三輪山に咲き匂う百合の花でふさふさと飾り、優雅な楽の音につれて神前にお供えされる事であります。又神饌は古式により熟饌に御調理申し上げて折櫃(おりびつ)に納め、柏の葉を編んで作ったふたをし、黒木の御棚にのせてお供えいたします。この三枝祭は本社の鎮花祭と共に疫癘の鎮圧を祈請することを本旨とするお祭であります。 なお当神社境内に左の神社がお祀りしてあります。 社名 率川阿波神社 御祭神 事代主神 例祭 六月十七日 今から約千年前の延喜式と云う古い書物に見えるお社で、御祭神は大物主大神の御子神で、俗に恵比須様と申上げている神様であります。 祝子(はふりこ)は早く祭らむ率川(いさがわ)の神の宮ゐに幣(ぬさ)たむくなり(古歌) 由緒書 |
率川神社 当神社は飛鳥時代、推古天皇元年(593)大三輪君白堤が勅命によっておまつり申し上げた奈良市最古の神社です。 御祭神の媛蹈鞴五十鈴姫命は、初代神武天皇の皇后様で、ご聡明にして、よく内助の功をおたてになりました。全国の神社の中で皇后様を主祭神とした神社は数えるほどしかありません。 三棟の本殿左側には父神の狭井大神、右側には母神の玉櫛姫命をお祀りし、中央にお祀りするお子様(媛蹈?五十鈴姫命)を両親がよりそうようにお守りになられる姿で鎮座されることから、古くより「子守明神」とたたえられ、安産、育児、生育安全、家庭円満の神様として県内外から篤い信仰がよせられています。 父神の狭井大神は生活全般の守護神であり、福寿の神である大神神社の大物主大神と同じ神様であり、媛蹈?五十鈴姫命が大物主大神のお子様にあたられることから、率川坐大神御子大神社の名で「延喜式」にも記載されています。 本殿は一間社春日造、檜皮葺の社殿を南向きに三殿並列させたもので、近世初頭の形式を伝える建物として県の指定有形文化財となっています。平成19年には江戸末期、文久2年(1862)以来の本殿保存修理が竣工し、朱塗りの色も鮮やかに甦りました。 公式HP |
卒川坐大神御子神社三座 卒川は伊佐加波と訓べし、日本紀、開化天皇元年10月丙申朔戊申、遷都于春日之地、是謂卒川宮、(卒川、此云伊社箇波」)大神御子は於保美和乃美古と訓べし、(大神の假字の事は、城上郡大神大物主神社の下見るへし、)〇祭神明か也、(但し御子の神名は志れず)〇南都子守町に在す、今子守宮と称す、(大和志)○古事記(神武段)伊須氣余理比売命之家、在狭井河之上云々、其河謂佐葦河由者、於其河邊山由理草多在、故取其山由理草之名、号佐葦河也、山由理草之本名云佐葦也、〇年中行事秘抄云、南家口伝云、卒川社、右大臣藤原是公卿所建立也、光孝天皇奉寄八十町之勅旨田、又其社南有社、號三枝名神、即大神名神御子神、件両社在一村相去不幾、今林小路加牟古不社者、神御子之訛乎、 壷井義知云、按三枝神者、是事代主命神女媛蹈鞴五十鈴媛命也、綏靖天皇御母也、拠旧事本紀号伊須気余理此売也、但謂卒川社者、與卒川三枝御子社別社也、御子社在率川社西而祀三坐、中御子神、左事代主神、右玉櫛姫、左右父母也、日之子守神、 神位 文徳実録、仁寿2年11月辛丑、大和國率川坐大神御子神授從五位下、 神社覈録 |