率川坐大神御子神社
いざがわにますおおみわみこじんじゃ


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【三枝祭】

三枝祭は、その起源も古く、文武天皇の大宝元年(701)制定の「大宝令」には既に国家の祭祀として規定されており、大神神社で行われる鎮花祭と共に疫病を鎮めることを祈る由緒あるお祭りであります。
 昔、御祭神姫蹈?五十鈴姫命が三輪山の麓、狭井川のほとりにお住みになり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き誇っていたと伝えられ、そのご縁故により、後世にご祭神にお慶びいただくために酒垂ノ笹ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。
公式HP


【三枝祭】

毎年6月17日に行われる伝統神事で、当社縁起によれば、
 「黒酒(クロキ−濁酒)・白酒(シロキ−清酒)の神酒を入れた缶(ホトギ)・吹iソン)と称する酒垂フ周りを、三輪山に咲き匂う山百合の花で豊かに飾り、古式に則った折櫃に納められた神饌と共に神前に供える」(大意)
とあり、山百合(笹百合)の花を多く用いることから別名・“百合祭”ともいう。
この祭は、令義解(833撰上・養老令-717-の官選注釈書)に
 「率川社の祭也。三枝花を以て酒垂飾る祭。故に三枝と曰ふ也。釈に云く、伊謝川社(イサカワ)の祭也。大神(オオミワ)氏の宗、日を定めて祭る」
とあるように、養老令あるいはそれ以前の大宝令(701)の頃からの官祭で、祭祀そのものは大神宗家が携わったが、平安時代には勅使派遣・幣帛奉献などがあり重視されたという。
 ここでいう三枝花とは“山百合”(笹百合)を指すが、これは古事記(神武記)に
 「イスケヨリヒメ(=ヒメタタライスズヒメ)の家、狭井川の辺にありき。その河を佐韋河(サイカワ)と謂う由は、その河の辺に山ゆり草多(サワ)にありき。故、その山ゆり草の名をとりて、佐韋河と号(ナヅ)けき。山ゆり草の本の名は佐韋と云ひき」
と記すように、当社祭神・ヒメタタライスズヒメが狭井川を介して山百合と関係が深いことから、この祭を、百合の古名・サイをとってサイクサ祭という。
 このヒメと狭井川・山百合との関係から、本来は狭井川の辺に鎮座する狭井神社(狭井坐大神荒御魂神社)の神事だったが、大神・狭井両神社で行われる鎮花祭(ハナシズメノマツリ)に吸収されたため、大神神社の分社でありヒメタタライスズヒメを主祭神とする当社に移したのではないか、ともいう(神奈備・大神・三輪明神-1997)。この祭が、狭井川から離れた当社で行われることに対する一つの解釈であろう。
 この祭は、中世になって、率川神社が春日大社・興福寺の支配下に置かれるようになると、藤原南家と関係が深い率川阿波神社の“率川祭”(春日系の祭・2月11月執行)と混同・同一視されて衰微・中断したが、明治14年(1881)に古式に則って復興され、現在に至るという。
 なお、今の三枝祭は、初夏の奈良を彩る華やかな祭となっているが、当祭の本旨は、令集解(養老令の私撰注釈書)に、「此を麁霊和霊祭(アラミタマニギミタマサイ)と云う」とあるように、初夏の頃から猖獗を極める疫病の退散を祈ったもので、その本旨からすれば、大神・狭井両社の鎮花祭と同じといえる。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/miwa-isakawa.html





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