岡田鴨神社
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   【延喜式神名帳】岡田鴨神社(大 月次/新甞) 山城国 相楽郡鎮座
          (旧地)岡田鴨神社【旧地】

   【現社名】岡田鴨神社
   【住所】京都府木津川市加茂町北44
       北緯34度45分41秒,東経135度52分34秒
   【祭神】建角身命
   【例祭】4月3日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】崇神天皇の頃の創建と伝
       貞観元(859)年正月27日、從五位上『三代実録』
       明治6年(1873)郷社
       明治10(1877)年式内岡田鴨神社と決定

   【関係氏族】賀茂氏族
   【鎮座地】北方木津川河岸に鴨大明神趾と称する地あり
        洪水で現地に移転と伝

   【祭祀対象】祖神賀茂建角身命
   【祭祀】祭神に異説無く、社名の変化もない
   【社殿】本殿 桧皮葺春日造
       拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】天満宮(祭神菅原道眞)・金刀比羅社(大物主命)・三十八社神(鹿島神御子三十八神)

賀茂氏族によつて奉祀され、また彼らの祖神賀茂建角身命を祀つた。
祭神はこの地から京都下鴨神社に行った。境内は元明天皇岡田離宮の旧跡。木津川の南。平地。集落の隅。


鎮守と沿革

由緒 本社は、延喜式内の古社に列せられ、「日本三代実録」によると、貞観元年(859)正月27日、岡田鴨神に従5位上を授くと記されている。明治6年郷社に列せられた。「釈日本紀」の山城風土記の逸文によると、建角身命は日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が、すなわち御祭神の建角身命で、大和平定に当たり数々の偉勲をたてられた。大和平定後、神は葛城の峰にとどまり、ついで山城国岡田賀茂(現在の加茂町・江戸時代までは賀茂村と書く)に移られ、その後洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まるのである。賀茂氏族の発展を祈り岡田賀茂の地に洛北より賀茂明神を勧請し賀茂氏族の祖神、建角 身命が祀られた。当社の御鎮座は、崇神天皇の御代と伝えられている。境内は、元明天皇の岡田離宮の旧跡と伝えられ、村人が離宮の旧跡を保存するためにこの地に天満宮を創祀したと伝えられる。和銅天平時代には、現在の木津川(古名−加茂川)は岡田山(流岡)の北側を流れていたが、その後木津川が南側を流れるように変化し、水害が頻繁になり、式内岡田鴨神社を旧社地より岡田離宮の跡である天満宮の境内に遷された。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




岡田鴨神社

祭神 建角身命
本社ハ延喜式内ノ大杜ニ列ナリ、貞観元年従五位上ヲ授ケ給ヒ。風土記ニ可茂社ヲ可茂ト称スルハ。日向曽之高千穂之峯ニ天降リ在マス神ニシテ、建角身ノ命ナリ云々ト見へ、洛北賀茂明神ヲ、始メテ勧請セシ旧地ナリ。現今郷社ニ列セラル、境内ハ和銅時代元明天皇岡田離宮ノ卸旧蹟ナルコト、或ル考古家ノ所説アリ。参照トシテ左ニ摘載ス。
当神社ノ西南ニ、旧小字ニ内垣外存セリ。是レ離宮ノ内垣外ノ意ナリ。後離宮ノ荒廃スルヤ、卿民元明帝ノ恩賜ニ感佩シ、離宮ノ旧趾ヲ保存センガ為メ、ココニ一杜ヲ設ケ天神社トイヘリ。コレ岡田離宮趾ノ一部分ナリ此地ノ西北ニ岡田山(今ノ流岡)アリ。又離宮趾ノ西方三町余ニ賀茂里岡田駅ノ趾(今の船屋ノ城)アリ。船屋ヨリ西方凡ソ八町加茂村大宇大野小字一丁久保ニ、岡田国神社ノ旧地アリ。和銅天平時代ニハ今ノ木津川ハ。岡田山ノ北力大字井平尾ノ地ヲ流レシモノナリ。
其後木津川ノ流域ハ岡田山ノ南方ヲ流ルルニ至リ、水害頻繁ナリケレバ、式内岡田鴨神社ヲ岡田離宮ノ趾ナル天神社ノ境内へ遷シタルモノナリ岡田ノ名義起困ハ往古岡田山ニツキテ、田ヲ作リシヨリ起ル。今ニ岡田山ノ南方木津川ノ南岸ニ小字佃(つくだ)アリコレ岡田旧地根本ノー部分ナリ。
明治卅三年三月刻
合資会社名古屋光彰館製版

社頭掲示板



岡田鴨神社

「延喜式」で大社に列せられた古社で、下鴨神社の元宮でもあります。 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)がご祭神です。八咫烏(やたがらす)に化身し、神武天皇の熊野から大和への難路を先導したのが賀茂建角身命です。サッカー日本代表のシンボルマークにもなっています。もとは木津川南岸(鴨大明神址)に鎮座されていましたが、木津川流路の変遷に影響を受けてきました。現社地は、元明天皇の岡田離宮跡に創建された天満宮の境内と伝えられています。
つぶやき
本殿後ろの楠の巨木が美しいです。参道には「左 いがいせ」と書かれた道標があり、当社地が交通の要所であったことをうかがわせます。夏には夏越祭があり、茅の輪くぐりでにぎわいます。

木津川市観光協会



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