岡田鴨神社
おかだかもじんじゃ


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【賀茂氏】

『山城国風土記』逸文によると、神武天皇とともに天降った賀茂建角身命は、日向国曾の峰(高千穂)から大和国葛城(葛木山、奈良県御所市)に移り、八咫烏となり、神武天皇を先導して、山代の国の岡田、山代河(木津川)と 北上し、最終的に「葛野河(桂川)と賀茂河の会ふ所」、その鴨川上流の愛宕賀茂(京都市北区の久我神社付近)に辿り着いたという。
その時期は、4世紀中頃までと考えられており。賀茂神を信奉する賀茂(鴨)氏の移住の軌跡と思われる。



岡田鴨神社

加茂町の町名由来は、カモ神とその神をまつるカモ氏に関係があります。
「山城国風土記」の中に、大和国葛城山のふもとにいた賀茂建角身命という神が大和から山城国下鴨神社に至る途中に山城国の岡田の賀茂を通つたと記載があります。
これは岡田鴨神社を指すと考えられ、加茂町のカモ神の起源の古さがわかります。
正面向かつて右側が岡田鴨神社、左側が天満宮です。
加茂町観光協会
(社)京都府観光連盟

社頭掲示板



岡田鴨神社 大月次新嘗

岡田は乎加多と訓べし、和名鈔、(郷名部)紀伊郡岡田、(仮字上の如し)鴨は加茂と訓べし、和名鈔、同賀茂、○祭神賀茂建角身命○賀茂郷北村に在す、(山城志)○釈日本紀云、山城風土記曰、賀茂大神御社称賀茂者、日向曽之高千穂峯天降坐神賀茂建角身命也、神倭磐余比古天皇之御前立上坐而、宿坐大倭葛城山之峰、自彼漸遷、至給山代国岡田之賀茂、随山代河下坐、葛野河與賀茂河所曾至坐云々、』続日本紀、和銅4年正月丁未、始置相樂郡岡田駅、
連胤、按るに、岡田も鴨も地名ながら、鴨は建角身命の鎮座以後、神號より称へしなるべし、」
夫水集、行家、「山城の此都をや守りけむ岡田の鴨に跡たれしより」
類社
当國愛宕郡賀茂別雷神社の下考ふべし
神位
三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國從五位下岡田鴨神從五位上、
雑事
続日本紀、和銅元年9月庚辰、行幸山背国相樂郡岡田離宮、特給賀茂久仁二里、戸稲三千束、

神社覈録



府社 岡田鴨神社

本社は創建年代詳ならす、其の旧記等は数度の洪水に流失して今伝はらす、然れども三代實録に「清和天皇貞観元年正月甲申、從五位下岡田鴨神に從五位上を授く」と見え、又延喜式に醍醐天皇延喜の制大社に列し、月次新嘗祈年案上の祭に預る由記せり、又神祇志料に、「今木津川東賀茂郷北村にあり、賀茂明神といふ(山城名勝志、山城志、神名帳考証)蓋賀茂健角身命を祀る、昔建角身命神日本磐余彦天皇の御前に立ちて、山代國岡田の賀茂に至り座き、即此地なり、(釈日本紀本朝月令)とありて山城志亦此意を記す、」とあり、往古は壱町計乾の方に在りしを、後に今の地に遷せりと云ふ、神社覈録に釈日本紀を引きて、曰く「山城風土記曰、賀茂大神御社称賀茂者、日向曾之高千穂峯天降坐神賀茂建角身命也、神倭磐余比古天皇之御前立上坐而、宿坐大倭葛木山之峰、自彼漸遷、至給山代国岡田之賀茂随山代河下坐、葛野河與賀茂河所会至坐云々」又日く和銅元年9月庚辰、行幸山背国相楽郡岡田離宮、特給賀茂久仁二里、戸稲三千束」とあり、かの夫木集に「山城の此都をや守りなむ岡田の鴨に跡たれしより」(行家)と見ゆるなど、古來史籍に著し、6月延喜式内岡田鴨神社と決定す。

明治神社志料



岡田鴨神社

「延喜式』の巻九、一〇は、神名帳と呼ばれ、諸国の神社が、国別・郡別に列挙されている。山城国相楽郡の項には、つぎの大杜四座、小社二座の計六座が挙げられている。
祝園神社 大、月次・新嘗
和伎坐天乃夫支売神社 大、月次・新嘗
綺原坐健伊那大比売神社
相楽神社
岡田鴨神社 大、月次・新嘗
岡田国神社 大、月次・新嘗
これらは、おそくとも10世紀段階における相楽郡内の官社を示している。以下、これらの神社を中心に、相楽郡の神々について考えたい。 これらの神社のうち、まず問題になるのが、岡田鴨、岡田国の両神社である。このうち岡田鴨神社は、『山城国風土記』(釈日本紀)の「可茂社」の項にみえる。それには、賀茂建角身命、神倭石余比古の御前に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、彼より漸に遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河の随に下りまして、葛野河と賀茂河との会ふ所に至りまし、賀茂川を見廻かして、言りたまひしく、「狭小くあれども、石川の清川なり」とのりたまひき。仍りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上りまして、久我の国の北の山基に定まりましき。爾の時より、名づけて賀茂と曰ふ。
とある。これによると、鴨氏の祖先神が、「大和の葛木山の峯」から「山代の国の岡田の賀茂」に移り、ここから「山代川(木津川〉」沿いに北上し、「葛野河(高野川)」と「賀茂河」の合流点にいたり、さらに「久我の国の北の山基」に鎮座したと伝えられている。
鴨氏の祖先神が、大和から山城の「久我の国」に移る途中に一時立ち寄った「岡田の賀茂」というところに、岡田鴨神杜が建てられたのである。第三章第四節で指摘したように、相楽郡には、鴨首が住んでいた。この鴨首やその配下の鴨氏の人びとが、この神社を奉祭したのであろう。
また、相楽郡には賀茂郷があったので、岡田鴨神社は、この郷内にあったと考えられる。第四章第一節で述べたように、賀茂郷は、加茂町の平地部のうち、木津川の南岸側を占めたと見られる。したがって、岡田鴨神社も、木津川の南にあったことになる。
現在、この岡田鴨神杜に比定されているのは、加茂町大字北字鴨村にある神社である。「山城相楽郡誌」には、木津川の川岸に、かつて「鴨大明神趾と称する地」があり、洪水のために移転したことを記している。いずれも、木津川の南側になる。この伝承の当否は確かめられないが、現在地に至るまでに、移転があった可能性は残るであろう。
岡田鴨神は、貞観元(859)年正月、従五位下から従五位上に上げられている(日本三代実録)。「延喜式』段階では、上述のように、大社として、月次祭・新嘗祭の時には、律令政府から幣帛をささげられることになっていた。

木津町史



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