和伎坐天乃夫支売神社
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   【延喜式神名帳】和伎坐天乃夫支売神社(大 月次/新甞) 山城国 相楽郡鎮座

   【現社名】和伎坐天乃夫支売神社
   【住所】京都府相楽郡山城町平尾里屋敷54
       北緯34度46分30秒,東経135度49分3秒
   【祭神】天乃夫岐売命 田凝姫命 市杵嶋姫命 湍津姫命
       天乃夫支売『神社覈録』

   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天平神護2年(766)5月7日、伊勢国石津船原岩部郷鎭座天乃夫支売尊をこの地和支に遷座
       貞観元年(859)正月27日従五位上
       貞観元年(859)9月8日遣使奉幣、爲風雨祈
       治承4年(1180)12月12日兵火て社殿炎上
       その後源頼朝が再建したという
       建武2年(1335)8月6日兵火の爲再炎上
       応永3年9月(1396)今の社殿を造営す
       元禄5年(1692)現在の本殿が建
       明治6年(1873)6月延喜式内と決定
       明治16年(1883)5月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当社初在綺田北、今有古松 とある
        現在地への移転時期不詳

   【祭祀対象】「涌出宮」の由緒から森または木霊か
   【祭祀】中世「涌出宮」
   【社殿】檜皮葺の三間社流造
       前拝所・拝殿・社務所・四脚門・手洗所

   【境内社】熊野神社・市杵島神社・大國主神社・勢田神社・白枝神社・天神社・春日神社、八幡宮

天平神護2(766)創建。大神をこの地に奉祭したとき、一夜に森が湧き出した。広い境内。
山城の祈雨神十一社の一社、延喜式八十五座の一として朝野の崇敬を受けた。


湧出宮縁起

古来より天下の奇祭「いごもり祭」で世に知られる湧出宮は、JR奈良線棚倉駅前の鎮守の森に鎮座する古社である。(旧社格は「延喜式内社・郷社」)創建は今より1200年余り前の、称徳天皇の天平神護2年(766)に、伊勢国渡会郡五十鈴川の畔より、御祭人として此の地に勧請申し上げたと伝えられている。
社蔵の文書(和伎 座天乃夫伎賣大明神源縁録)によれば、御祭神天乃夫伎賣命とは、天照大神の御魂であると記されている。恐れ多く神秘なるが故にかく称し上げたとある。後に田凝姫命 、市杵島姫、瑞津姫命を同じく伊勢より勧請して併祀したとある。尚、この三女神は 、大神とスサノオの命との誓約によってお生まれになった御子である。(涌き出宮大明神社記)
大神を此の地に奉遷した処、此の辺は一夜にして森が涌きだし4町8反余りが、神域と化したので、世の人は恐しく、御神徳を称えて、「涌き出森」と呼称したと言い 伝えられている。山城の国祈雨神11社の1社として、昔から朝野の崇敬を集めてきた。清和天皇(859)や、宇多天皇(889)が奉幣使を立て、雨乞い祈願をされえたところ、霊験により降雨があったと記されている。本殿は社蔵の「堂社氏子僧遷宮記」よれば、現本殿は元禄5年(1692)の造営で、「三間社・流れ造り」で屋根には「千木・勝男木」置くとある。
それ以前には中世の戦火で度々焼失し、源頼朝や、後小松朝、後柏原朝の御世にも再建された。昭和50年には本殿の屋根が檜皮葺から銅板葺き変わり、現在の形になった。平成3年には氏子、崇敬者の浄財拠出により、神楽殿・社務所が全面改築新装された。
涌出森境内一帯は、弥生期の居住跡として弥生式土器・石器等が出土した。また、社務所改築前の発掘調査では、竪穴式住居跡も確認された。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




由緒書

由緒書 一、神社名 和伎座天乃夫岐売神社(通称涌出宮)
二、御祭神 天乃夫岐売命
      田凝姫命
      市杵島姫命
      端津姫命
三、涌出宮縁起
1古来より天下の奇祭「いごもり祭」で世に知られる涌出宮は、JR奈良線棚倉駅前の鎮守の森に鎮座する古社である。(旧社格は「延喜式内社・郷社」)
2創建は、今より千二百年余り前の、称徳天皇の天平神護2年(766年)に、伊勢国度会郡五十鈴川の畔より、御祭神として此の地に勧請申し上げたと伝えられている。
社蔵の文書(和伎座天乃夫岐売大明神源緑録)によれば、御祭神天乃夫岐売命とは、天照大神の御魂であると記されている。恐れ多く、神秘なるが故にかく称し上げたとある。後に田凝姫命、市杵島姫命、瑞津姫命を同じく伊勢より勧請して併祀したとある。
尚、この三女神は、大神と素盞鳴命との誓約によってお生れになった御子である。(涌出宮大明神社記に拠る)
3大神を、この地に奉遷した処、此の辺は一夜にして森が涌き出し四町八反余りが、神域と化したので、世人は恐くし、御神徳を称えて、「涌出の森」と、呼称したと言い伝えられている。
4山城の国祈雨神十一社の一社として、昔から朝野の崇敬を集めてきた。清和天皇(859年)や、宇多天皇(889年)が奉幣使を立て、雨乞祈願をされたところ、霊験により降雨があったと記されている。
四、社殿・建造物など
1本殿は社蔵の「堂社氏子僧遷宮記」によれば、現本殿は元禄5年(1692年)の造営で、「三間社・流造り」で屋根には、「千木・勝男木」を置くとある。
2それ以前には中世の戦火で度々焼失し、源頼朝や、後小松朝、後柏原朝の御代にも再建された。
3昭和50年には、本殿の屋根が槍皮葺から銅板葺に変わり、現在の形となった。
4平成3年には、氏子、崇敬者の浄財処出により、神楽殿・社務所が全面改築新装された。
5涌出森境内一帯は、弥生期の住居跡として、弥生式土器・石器等が出土した。また、社務所改築前の発堀調査では、堅穴式住居跡も確認された。昭和58年京都府指定・涌出宮遺跡
五、主な神事
1昭和60年国指定 重要無形民俗文化財 涌出宮の宮座行事
◎近畿地方で行われる宮座行事の中でも、当神社のそれは、氏神祭祀の古風な儀礼をよく保存する典型的な例として重要である。(指定基準の辞)
○いごもり祭 与力座の運営により、古川座・歩射座・尾崎座が参画して祭祀が行われる。
室町期の農耕儀礼と古代神事をよく温存していると言われる祈年祭である。
2月15日 午後8時頃門の儀・大松明の儀
2月16日 午後2時頃 勧請縄奉納の儀
2月17日 午後2時〜4時 饗応の儀・御田の式
(備) 他見をはばかる神事 
2月15日 午前1時〜18日午前5時
森廻り神事・野塚神事
御供炊き神事・四ツ塚神事
○女座の祭 岡之座・中村座の女衆が大根で作った擬物の前で会食をし、後それを神前に供え、神楽を奉納する。春の彼岸中日 午後三時頃
○アーエーの相撲 大座・殿屋座と岡之座・中村座から夫々男児二名を出し、子供相撲を奉納する。 九月三十日 午後二時頃
○百味御食(秋祭) 大座・殿屋座・岡之座・中村座が各戸から、集めた野山の収穫物を供物として神に奉納する。十月十七日 午前九時
2その他の神事
○元旦祭 1月1日 午前零時より
○新嘗祭 11月23日
六、いごもり祭(居籠祭・齋居祭)起源など
1天下の奇祭「いごもり祭」の起源については諸説の伝承がある。崇神天皇の御代に、天皇の庶兄で、当地山城地方を任せられていた、武埴安彦命の軍が、大和朝廷軍と戦い敗北して安彦は非業の最期を遂げた。その後、数多の戦死者の霊が崇り、この辺りに悪疫が大流行して人々を悩ませた。村人達は齋みこもって悪疫退散の祈祷をし、かくして悪霊が鎮まった。これが、いごもり祭の起りと言われている。(日本書紀)
因に、木津川対岸の祝園神社でも、いごもり祭を齋行されている。伝説では、安彦が斬首されたとき、首は川を越えて祝園まで飛び、胴体は棚倉に残ったと言われている。
祝園神社では、安彦の首を型どった竹輪を祭に用い、涌出宮では胴体を型どった大松明を燃すのだ、との言い伝えもある。
2昔、鳴子川へ三上山から大蛇が出てきて、村人を困らせたので義勇の士がこれを退治したところ、首は祝園に飛び胴体は棚倉に残ったとの言い伝えもある。
3「いごもり祭」は、昔は「音無しの祭」と言われ、村中の人達は、家の中に居ごもって年乞の祈りが成就されるまで一切音を立てなかったという。
4現今では、「いごもり祭」は、室町期の農耕儀礼を伝える豊作祈願の祭と言われ、更に春を呼び幸せを招く、除厄招福諸願成就の祭として、大いに世人の注目と信仰を集めている。

由緒書



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