和伎坐天乃夫支売神社
わきにますあめのふきめじんじゃ


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【居籠祭】

宮座により執り行われる宮座行事、祈年祭の居籠(いごもり、斎籠、齋居)祭がある。古代より、慈雨の神として農耕民に崇拝され、古代神事が行われてきた。さらに、室町時代の農耕儀礼、豊作祈願、春を呼び幸せを招く除厄招福諸願成就の祭りでもある。
大古安彦の軍が大和朝廷軍と戦い、安彦は討たれ、多くの戦死者の霊が崇ったという。その後、村で悪疫が大流行し、人々は畏れ齋み籠った。この悪疫退散の祈祷により鎮まったことに因むという。(『日本書紀』)
また、安彦が斬首された時、その首は川を越え祝園(ほうその、精華町)まで飛び、胴体は棚倉(山城町)に残ったという伝承がある。
また、かつて、東方の三上山(さんじょうやま)から鳴子川へ大蛇(水神)が出て村人を困らせた。この時、義勇の士が蛇を退治した。蛇の首は祝園に飛び、胴体は棚倉に残ったともいう。
二つの伝承を受けて、祝園神社でも居籠祭が齋行されている。祝園神社では、安彦の首を模った竹輪を用い、涌出宮では胴体を模った大松明を燃したともいう。
当社の居籠祭は、中世以来続く宮座行事になっており、重要無形民俗文化財に指定されている。祭りは神事と氏子の居籠からなる。現在の居籠祭は、与力座により運営され、古川座、歩射座、尾崎座が加わる。穢れに触れないように家に籠り、3日間物音を慎み、精進する。かつては「音無しの祭」といわれ、一切の物音をたてることが禁じられた。氏子の家の入口に筵が吊るされ、家に居籠り年乞の祈りが成就されるまで物忌した。
かつては陰暦正月の午、未、申の3日間行なわれていた。その後、2月15日-17日の3日間行なわれるようになり、近年、2月第三土・日曜日に変更された。
次のような神事がある。門(かど)の儀・大松明の儀(永々納灯祭)(2月15日、午後8時)、勧請縄(かんじょなわ)奉納の儀(2月16日、午後2時)では、門の冠木に縄が巻きつけられ、一切の災いを封じ込める。饗応(あえ)の儀・御田(おんだ)の式(お田植祭、農耕作業を疑似的に行い、豊作を約束付ける)(他見をはばかる神事)(2月17日、午後2時-4時)
森廻り神事、野塚神事、御供炊(ごくた)き神事、四ツ塚神事(2月15日午前1時-18日午前5時)、3日間毎夜続けて行われる野塚祭では、神職が境外の野塚三ヶ所へ農機具、御供を納めに行く。望見(様を見る)は禁じられている。


【文化財】

本殿 京都府登録文化財 三間社流造、屋根には千木、勝男木を置く
四脚門 山城町登録有形文化財 室町時代末
拝殿 山城町登録有形文化財 江戸時代初期
本殿棟札12枚 府登録有形文化財


和伎坐天乃夫支売神社 大月次新嘗

和伎は假宇也、天乃は阿米乃と訓べし、夫支売は假字也、○祭神明か也○平尾村に在す、今涌出宮と称す、○式三、(臨時祭)祈雨祭神八十五座、(並大)和伎社一座、
考証云、日本紀云、素盞鳴尊五世孫天之葺根神、古事記云、淤彌豆奴神子天之冬衣神、按夫支売葺根冬衣雖字異語相通、』比保古云、天乃夫支売神者天葺根神也、売與根横音通、是素盞鳴尊五世孫也、』古事記傳にも、冬衣葺根夫支売同神か、(此に売とあるは、女神にてもあるべし、此記に天之吠男神と云も、上に見えたり、又は売は根より纏れるにもあらむ、)其に並て健伊那大比売神社もあるも由ありかしと云り、連胤按るに、葺根神は男神、夫支売神は女神と聞ゆれば、天之吹男神の配神にてあらんか、是も五十歩百歩の論なれど、音通と女神に某根神といへる例を志らず、故に試みに云ひ置のみ、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、泰授山城國從五位下和伎神正五位下、從五位下天野夫支売神從五位上、
連胤按るに、和伎神と天野夫支売神は、位階の甲乙ありて、別神と聞えたれば、和伎神は地主神にもやあらん、猶考ふべし、」比保古に、和伎神の神位奉幣ともに、当杜に非ずとせるは信がたし、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、山城國和伎神、遣使奉幣為風雨祈焉、

神社覈録



郷社 和岐坐天之夫支売神社

本社は其創建年代詳かならす、されど式内神社として著名なり、始め伊勢國度曾の縣、佐古久志呂宇遅の五十鈴の川邊舟箇原岩部の里に鎮座ありしを、天平神護2年5月7日、現今の地に遷せりと云ふ、神社覈録に「考証云、日本紀云素盞鳴尊五世孫天之葺根神、古事記云、游彌豆奴神子天之冬衣神、按夫支売、葺根、冬衣、雖字異語相通、比保古云、天之夫支売神者天葺根神也、売與根横昔通、是素盞鳴尊五世孫也云々、又三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國從五位下和岐神正五位下、從五位下天野夫支売神從五位上、按るに、和伎神と天野夫支売神は、位階の甲乙ありて別神と聞えたれば、和伎神は地主神にもやあらん、猶考ふべし云々、と見ゆ、然るに神紙志料に「按本書從五位下和伎神正五位下とありて、共さし次に祝園神天野夫伎売神岡田鴨神岡田國神云々とあるは、神名帳の次序全く同じきを以て考ふるに、上の和支神云々は誤りにて、旧和伎座天野夫支売神など有けむを、後に混ひしものなるべく思はる云々」と論ぜり、尚同書に「平城天皇大同元年神封四戸を充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年9月庚申和支神に幣を奉て雨風を祈らしむ(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、月次新嘗及祈年案上の幣帛に預る(延喜式)凡毎年正月二午日7月16日、9月朝祭を行ふ(小泉藩神社明細帳)と見え、尚本社伝説に、祭神天夫支売命、田凝比売市杵島姫命とあるに拠るときは、天夫支売神は田寸津比売命をさすに似たり、されど証なければ信じかたし、姑附て後考を侯つ」と、山城志に云ふ「仁壽元年8月、授従五位下、貞観元年正月、授正五位下、9月遣使奉幣、爲風雨祈焉」と、寛平元年夏旱魃、請雰軟願あり、則ち山城國祈雨神社十一座の一なり、治承4年12月12日、始めて社殿炎上し、源頼朝之を造営せりと云ふ、後建武2年8月6日、兵火のため社殿又炎上せり、其後応永3年9月に至りて造営せる社殿は即ち今の社殿なり、明治6年村社に定められ、同10年6月式内神社と定められ、同16年5月郷社に昇格せり。
社殿は、本殿、前拝殿、拝殿、御供所等を具備し、境内3166坪(官有地第一種)あり。

明治神社志料



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