祝園神社
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   【延喜式神名帳】祝園神社(大 月次/新甞) 山城国 相楽郡鎮座

   【現社名】祝園神社
   【住所】京都府相楽郡精華町祝園柞の森1
       北緯34度46分5秒,東経135度48分5秒
   【祭神】天児屋根命 建御雷命 経津主命
       「祭神詳ならず」『神社覈録』
       天児屋根命・健御雷命・経津主(齋主神)『神社明細書』
       風土記には羽振苑社とし、大歳神、伊怒比女神、曾富理神とあり

   【例祭】3月1日 祈年祭 10月10日 例祭 11月23日 新嘗祭
   【社格】 旧郷社
   【由緒】崇神天皇10年9月 故號其処、日羽振苑。『日本書紀』
       神護景雲4(770)年1月21日の春日の大神を御勧請し創祀された。
       大同元年(806)封戸四戸
       貞観元(859)年正月27日 従五位下から從五位上へ『三代実録』
       嘉吉4(1444)年正月24日 「春日社領祝園庄公文職事」『建内記』
       天正4(1576)年7月24日 天下泰平の国宣あり
       慶応3(1870)年8月 有栖川官家より御寄進
       明治6(1873)年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地である

   【祭祀対象】
   【祭祀】近世には春日神社を称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・参籠所・門・手洗舎・鳥居

   【境内社】西宮神社(祭神事代主命)・天満宮(菅原道眞公)・稻荷神社(稻倉魂命)
        出雲神社(大己貴命)・有功神社(布留御霊神・道臣命相殿)・祈雨神社
        熱田神社(日本武尊)・熊野神社(伊邪那岐神)・大神宮(大日要命)・若宮神社(大鷦鷯命)


木津川西岸土手下の社。集落奥。神護慶雲4に創建。崇神天皇の時代に武埴安彦が反逆しこの地で討伐される。その亡魂柞の森に留まり、聖武天皇これを撲滅しようとしたが鬼神の所業なれば如何ともしがたく、称徳天皇、池田六郎広綱・宮城七良朝藤を祝部として春日大神を勧請して創祠。


御由緒沿革

人皇第10代崇神天皇の御代、第8代考元天皇の皇子、武埴安彦が朝廷に反逆を企て遂に此の地に於いて討伐されたが(記紀参照)、亡魂、柞ノ森に止まり、人民を悩ませしを第45代聖武天皇神亀年中に、これを撲滅せんとするも鬼神の所業なれば、人力にては如何ともなり難く、後年48代称徳天皇の御代、神力を以てこれを撲滅せよとの勅命により大中臣池田六良広綱、宮城七良朝藤が、祝部となり、神護景雲4年1月21日の春日の大神を御勧請し創祀された。かくして斎戒沐浴精進祈願により、(これが今に伝わるいごもりの始まり)神力の加護の基に遂に悪霊撲滅の難業なり、広綱、朝藤の功と相俟って揃って漸く悪病平癒、人民安堵、農家の繁栄、商工業の隆盛を見るに至った。かかる霊験灼かなる神なれば、貞観元年正月27日に神階位従5位下を授け後年延喜式内大社に列せられる。天正4年7月24日には天下泰平の国宣あり、院參の官人及び武門武将の尊崇深く、社殿の修造に寄進の事がしばしば見受けられ慶応3年8月には有栖川官家より御寄進を賜り、同官家の御祈願所となる。明治6年郷社と定められ祝園村の産土神と決定の旨達せられる。昭和38年高松宮殿下より、有栖川宮威仁親皇殿下50年祭に当たり、同殿下の筆録を御寄進あり。又、昭和59年4月14日、いごもり祭は京都府無形民俗文化財に指定された。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




祝園神社

鎮座地
京都府相楽郡精華町大字祝園小字柞ノ森一番地
御祭神
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
健御雷命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
当神社は延喜式内社で第48代称徳天皇の勅命により悪病平癒家内安全農商工業の発展を祈願するため、神護景雲4年1月21日に創祠されたお宮です
主な神事
1月 いごもり祭
      無形民族文化財指定
10月10日 例祭
12月  御神祭

社頭掲示板



祝園神社(ほうそのじんじゃ)

社記によれば、崇神天皇の時代に、この地で討伐された武埴安彦(たけはにやすひこ)の亡魂が鬼神となって柞ノ森(ははそのもり)に止まり、人々を悩ませていました。これを鎮めるため、春日大明神を勧請して創立されたのが同神社であるといわれています。現在に伝わる「いごもり祭」も、この時の斎戒沐浴(さいかいもくよく)しての祈願に始まるといわれています。
文献では「新抄格勅符抄」に「祝園神」の名が見えるのが最古であり、少なくとも、奈良時代には確実に存在していたと思われます。その後「延喜式」神名帳、「三代実録」に名が見え、嘉吉元年(1441)に書かれた「興福寺官務牒疏」には在僧2人、祝主3人、神人3人がいたことが記されています。
▼棟札
現存する棟札は、江戸時代のもの6点ですが、「当社度々造営日記」(木札)と文政7年(1824)の棟札写(木札)を総合すると、合計18回の造営・修理の事実を復元することができました。ただし、そのうちの1回、安永5年(1776)の分は「祝園森薬師寺」という寺の再建です。再建にあたって、水難を避けるため、6尺の地上げをしたことが書かれています。
正徳3年(1713)の棟札は、前年8月19日に「前代未聞」の大洪水に見舞われ、社殿が大破したことを伝えています。この大洪水は、木津川周辺の村々に大きな被害をもたらしました。今も地元の人々から、「正徳の水害の時に」という言葉が出るほど、語り継がれてきた災害でした。同神社の棟札は、洪水の記録や、地上げの記録を含み、木津川周辺の村の歴史をしのばせてくれる点で興味深いものです。

精華町HP



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