祝園神社
ほうそのじんじゃ


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【由緒】

日本書紀に「武埴安彦と討伐軍の将・彦国葺(和邇氏の祖)とが輪韓河(ワカラカワ、木津川の古名)をはさんで対陣し、開戦の合図の矢を射あった。先ず武埴安彦が彦国葺を射たが当たらなかった。ついで彦国葺が射た矢が武埴安彦の胸に当たって殺された。
為に部下達はおびえて逃げたが、これを河の北に追って破り半分以上の首を斬った。屍が溢れ、そこを羽振苑(ハフリノソノ・今の祝園)と名づけた」
羽振苑の“ハフリ”即ち“ハフル”は“放棄”の意で“、死骸を投げる捨てる”あるいは“その場所”を意味し、それが転じて“祝園・ハフソノ”となり、今の“ホウソノ”となったという。


【春日神社】

中世になると、この地に春日社領祝園庄が置かれるなど奈良・興福寺の支配が強くなった。
春日社領祝園庄の精神的紐帯として、春日の神が勧請され祝園神社に合祀せられ、そしてやがて祝園神社の名称自体が春日社にとつてかわられていつた。


【いごもり祭】

毎年、正月の申(さる)の日から3日間行われます。1月に申の日が3回あるときは、中の申の日、2回のときは初めの申の日になります。
崇神天皇10年(紀元前88年)、朝廷に反逆を企てた武埴安彦が祝園地区で討伐されました。しかし以来、悪病の流行が相次ぎ、田畑の荒廃が著しく、人々は飢えと悪病に苦しむことになります。それは、討伐の悲運のなかに亡くなった高貴の人々、武士たちの魂のたたりであるとされました。そこで、その人々の亡魂を丁重にお祀りし、神力により災いをなくそうという素朴な民俗信仰が生まれました。
その祈りの神事・行事を「いごもり祭」といい、山城地方の奇祭、音なしの祭りともいわれています。皇室や、時々の施政者からも「いごもりは渦をなくし、生きる力と福をもたらす霊験あらたかなる神事」と、敬われてきました。 



祝園神社 大月次新嘗

祝園は披布曽乃と訓べし、和名鈔、(郷名部)祝園、(假字上の如し)○祭神詳ならず○祝園村に在す、今春日大明神と称す、○日本紀、崇神天皇10年7月、於是各争先射武埴安彦先射、彦國葺、不得中、後彦國葺射埴安彦、中胸而殺焉、其軍衆脅退、則追破於河北、而斬首過半、屍骨多溢、故號其処曰羽振苑云々、」古事記、(崇神段)亦斬波布理其軍士、故號其地謂被布理曽能、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国從五位下祝園神從五位上、

神社覈録



郷社 祝園神社

本社は、神護景雲4年武垣安彦の霊魂退治のため勧請せしと云ふ、されど其の後の沿革詳かならす、神社覈録に「祭神詳かならす、祝園村に在す、今春日大明神と称す、日本紀、崇神天皇10年7月、於是各争先、射武埴安彦、先射彦国葺不得中、後彦国葺射埴安彦、中胸而殺焉、其軍脅退、則追破於河北、而斬首過半、屍骨多溢、故號其処曰羽振苑云々、古事記に、亦斬波布理其軍士、故號其地、謂波布理曾能」と見えたり、又神祇志料に、「今祝園村柞ノ森にあり(山城志、神名帳考証、山城式社考)清和天皇貞観元年甲申、從五位下祝園神を從五位上に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、月次新嘗祈年案上の幣に預る、延喜式凡毎年正月上申日祭を行ふ、村中の男女三日の間致齋して尤も慎む、之を齋居といふ(山城志)」とあり、又神名帳考証に云く、「今在柞森曾富理神、古事記云、大年神娶伊怒姫、生子曾冨理神」と、明治6年郷社となり、同10年6月式内神社と決定す。
社殿は本殿、拝殿、神樂所等を具備し、境内614坪(官有地第一種)あり。

明治神社志料



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