小学校に隣接する平地の大社である。月読神社に関しては異論の余地はない 御霊社と呼ばれていた 月読神社の管理にあたつた法輪山福養寺は明治初年に廃絶したが、それ以前は六坊を有していた。 月読神社の北側に隣接する大住小学校は、六坊中“北の坊"の旧地であるという。 中世兵乱によって、社運が衰徴した。10月14日の宵宮には「大住隼人舞」「隼人踊り」が奉納される。大住隼人舞は、約1300年前に大隅隼人、薩摩隼人が朝廷に仕え、宮廷で演じたと伝えられる古代芸能を復興させたもの。 明治維新の折には、鳥羽伏見の戦いを避けるため、石清水八幡宮が一時遷座され、ご神宝が薬師堂に安置された。 薪神社境内に甘南備山頂にあった石で、月読神が影向したと伝わる石が祀られている。何故、薪神社へ運ばれたのか不明、月読神社の元社であったのかも知れない。 |
月読神社の由緒 月読神社は月読尊・伊邪那枝尊・伊邪那美尊を祭り旧村社「延喜式内社」大住国から 当地へ来住した隼人らが祀ったともいわれ、又一説には平城天皇の大同4年(西暦8 09)大住山に霊光を拝して神殿を造営されたのに始まり、その後貞観元年8月に月 読神社といわれている。貞治3年葛野義威が神殿を再興し慶応4年正月石清水八幡宮 が戦火を避けて当社へ、一時遷座された事のある格式の有る神社です。本殿は東面し 、一間社・流造・板葺で明治26年再建。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
月読神社 月読神社の歴史は、大同4年(西暦809年)宮殿を平城京より平安京に遷座されし時、大住山において霊光を拝し、ここに宮殿を創る。又当社は天下の疫病を鎮めしにより御霊社の名ありしという。貞観元年(859年)月読社と称える。元慶6年(877)神階をさづけられ、従一位、勲二等。承暦元年(1077)天下が天然痘に悩むに付き勅使参弊ありという。建久6年(1196)源頼朝、鎌倉より上洛して当社に神馬を献じ、松井及び河内、交野郡招提を神領として寄進した。貞応2年(1222)鴨武隅命の嫡子、葛野家友によって社殿再建。元弘元年(1331)後醍醐天皇、笹置山に遷せられし時、大住一族並びに岡本弾正久織等、味方にはせ参じ当地戦乱のちまたとなり、社殿兵火にかかるという。貞治3年(1365)葛野義威神殿再興する。至徳3年(1387)御牧の伊豆前司基貞と大住飛騨守義季と争い合戦のため御霊社焼失。康応元年神殿修理する。天文11年(1542)大住城主、大住石見守元保と八講寺城主東長門盛章等社殿にて勧進能を行う。文久3年(1863)神興再興。慶応4年(1868)石清水八幡宮が当社に遷座した。それより神饌料として玄米一俵奉納あるを恒例とした。 毎年1月8日これを行い来ったが、今は絶えている。明治26年(1893)本殿改築し帝室技芸委員で名古屋の伊藤平左衛門の設計により竣工した。これが今の社殿である。大正13年(1920)東宮御成婚記念として、社務所の大修理があった。この神社は、かく往古から大住村の生活の中心をなし大住村が京都の曇華院領であったことから今も同院との関係がつづき毎年10月14日の当社宵宮の献饌を10月15日に当家の者が持参して嵯峨の曇華院門跡に献上するのを例としている。 宮司 南啓史 月読神社総代 社頭掲示板 |
隼人舞伝承地(月読神社) 九州南部の大隅隼人が奈良時代大住に移住した。この大住隼人が郷土の民俗芸能の隼人舞をこの月読神社に奉納して舞伝えてきた。大嘗祭の時には宮中に奉仕して隼人舞を演じた伝統を持っている。 隼人舞は岩戸神楽と共に日本民俗芸能の二大源流ともいわれる。この隼人舞は古事記や日本書紀の山幸彦の神話にその起源がある。 最近になって文学博士志賀剛氏の研究により能楽五座の内外山座が大住月読神社の外山神楽座であることがわかり、更に牧山望氏により隼人舞を再現し、毎年10月15日の例祭に奉納され継承されている。現在では地元を中心に隼人舞保存会も結成され、昭和50年12月19日に田辺町無形文化財第一号として指定された。 田辺町教育委員会 田辺町文化財保護委員会 社頭掲示板 |
月読神社 当神社の創祀はあきらではありませんが、延喜5年(905)から編集されだ「延喜式神名帳」にもその名がみえ、大社の格を有していました。 祭神は月読命ですが、後世、伊邪那岐、伊邪那美の二神をも配祀したと社記にあります。鎌倉時代初めに、源頼朝から神馬の献上があったとも伝えられています。 明治維新の折りには、鳥羽伏見の戦いを避けるため、石清水八幡宮が一時遷座され、ご神宝が薬師堂に安置されました。今の社殿は明治26年(1893)に建立されたものです。 毎年、1O月14日の宵宮には大住隼人舞(市指定文化財)と隼人おどりが奉納されます。 社頭掲示板 |
月読神社 月読尊(つきよみのみこと)・伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)をまつる式内社で、大社に位置づけられていた。 中世にはたびたび兵乱を受け、社殿の焼失・再建を繰り返したという。本社が位置する大住地域の多くは平安時代末期以降、室町時代末まで奈良興福寺の領地であった。 神宮寺として、法輪山福養寺が明治初めまで存在した。同寺には奥ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊・北ノ坊・東ノ坊の六坊があり、大住小学校は北ノ坊のあった場所と伝えられる。神社境内には奥ノ坊の庭園の跡が残っている。 慶応4年(明治元年・1868)、伏見鳥羽の兵乱が及ぶのをさけて、八幡の石清水八幡神が当社境内に一時遷座されたこともある。 現在の本殿は、東に面するー間社春日造、銅板葺(もとは檜皮葺)の建物で、明治26年(1893)に名古屋の伊藤平左衛門により設計された。本殿を囲む玉垣の正面に鳥居を配置する珍しい構造が見られる。春日造は奈良春日大社の本殿の形式で、現在の奈良市を中心に、奈良県・京都府南部・大阪府・和歌山県北部に分布する。 例祭 10月15日 宵宮には大住隼人舞が奉納される。 京田辺市教育委員会 京田辺市文化財保護委員会 社頭掲示板 |