月読神社
つきよみじんじゃ


戻るボタン





【隼人】

当社由緒では“隼人族の当地移住を7世紀頃”とするが、大住にある前方後方墳が「5世紀頃、年代を引き下げても6世紀前半の隼人集団の統率者級の古墳」とみる見解(森浩一)、あるいは時代は降るが正倉院に残る古文書や続日本後記に、当地の居住する隼人族の大住忌寸(イミキ)・阿多忌寸なる人物名が載ることからみて、5世紀とはいわぬまでも、相当古い時代から隼人の人々が当地方に居住していたと思われる。因みに“大住”の地名も“大隅隼人”に由来するという。
大住の地には、当社や別稿に記す樺井月神社の他にも月読命に関わる神社が幾つか残っている。当社の南約4qの甘南備山(カンナビ、H=217m)には月読神が降臨したとの伝承があり、山頂に鎮座する神南備神社(式内小社)の本来の祭神は月読命という(今の祭神はアマテラス他4柱)。また甘南備山北東山麓の薪神社には注連縄を張った神石(H≒1m)があり、地元では月読神が降臨した磐座・影向石といわれている。
当地に居住した隼人の人々は甘南備山を月読神が降臨した聖地と見、その麓に幾つかの月読社を創建したと思われる。ただ、これらに祀られている月読命は、記紀にいう三貴神の一人としてのそれではなく、潮の干満を左右する月神という土俗的・海人的な月神信仰に基づくものといえる。



【大住隼人舞】

10月14日の夕刻、月読神社・天津神社の宵宮に奉納されるこの舞は、約1300年前に大隅隼人が朝廷に仕え、宮廷で演じたとされる古代芸能を復活させたもの。岩戸神楽とともに日本民俗芸能の源流といわれている。四方に笹つきの竹を立て、縄を張りめぐらせた舞台には、正面の大竹に天蓋がつけられ、5色の幡を垂らし、米や塩、野菜などが備えられる。海幸彦・山幸彦の神話が起源  舞人は地元の中学生の子どもたち13名。古代の衣装を身にまとい、手には剣や盾などの武具、扇、鈴を持ち、太鼓や龍笛の音に合わせて踊る。別の小・中学生による舞は「お祓いの舞」「神招の舞」など6つからなり、『日本書紀』第二巻神代下巻第十段、海宮遊幸の章にある、海で溺れているところを山幸彦に助けられた海幸彦が、山幸彦への服従を誓い、その証として永久に俳優(わざおぎ)たらんと、水に溺れている様子を演武したものと伝わる。
「京田辺市観光協会」


【宝生座発祥の地】

本殿左手の疎林の中に「宝生座発祥の地」との石碑があり、「月読神社の神宮寺を宝生山福養寺といい、老松の茂る池には亀が遊んでいた(今の大住中学校の地)。この神社と寺に奉納した能楽座を宝生座(古くは外山座とも)と称した」とある。宝生座は観世座の祖・観阿弥の長兄によって始められた大和4座の一座で、特に加賀地方(金沢)を中心として盛んだった。
また境内を出た道路脇の植え込みの中に「宮中神楽発祥の地」との黒御影の石碑があり、「庭燎 深山なる霰降るらし 外山なる まさきの葛 色つきにけり」との和歌が刻されている。


月読神社

月読神社 大月次新嘗
月読は都岐與美と訓べし○祭神天月神命○大住村に在す、今御霊と称す、山城志
類社
當國葛野郡葛野坐月読神社(名神大月次新嘗)壹岐島壹岐郡月読神社(名神大)
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國從五位下樺井月読神從五位上、
蓮胤按るに、樺井の二字創るべし、樺井月読神は、同日奉授正五位下と前文に見えたり、

神社覈録






戻るボタン


山城国INDEXへ        TOPページへ