綴喜郡にあり、この地は古代息長氏一族に関連深い地である。 この辺は息長氏の本拠地 仁徳天皇時代、この地より西方の西峰山頂に創建 宣化天皇元年(535年)この地に移された 古代豪族の息長氏(おきながし)の祖神を祀った神社で、古来か ら近郷の崇敬をうけています。7月13日に当社から榊が京都八坂神社へ移す行事がありましたが、今は行われておりません。 貞観11(869)年、朱智神社の祭神として祀っていた迦爾米雷命(かにめいかづちのみこと)(牛頭天王ごずてんのう)が、祇園の八坂郷感神院(八坂神社の前身)に遷されたことから、八坂神社の元となる神社といわれている。 中世に於ては、当地に興福寺領朱智長岡庄が存在し、朱智神社はその鎭守であつたようである。 水島永政『山城國式社考』では天神社を比定している。 |
御由緒 当社はもとこの地より西方3町余りの所に有り仁徳天皇69年に社殿を建てて朱智天 王と号しました。迦邇米雷王は開花天皇の曾孫で神功皇后の祖父に当られ垂仁天皇御 代にこの地を治められて、その子孫朱智姓を名乗られました。須佐之男命が相殿とし て祭られたのは垣武天皇の御代に大宝天王(牛頭天王)を現在の京都八坂神社に遷し 毎年の榊遷しの行事を行いましたが何時よりか無くなりました。 明治維新に至り神祗 官に上請して天王社を古名の朱智神社に復し明治6年6月郷社となりました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
朱智神社(式内社) 迦爾米雷命(かにめいかづちのみこと)(神功皇后の祖父)を主神とし、古代この地一帯に勢力のあった息長氏(おきながし)の祖神を祭っている式内社である。 社伝では、仁徳天王のとき現在地より西方の西峰頂上に創建され、宣化天王元年(535)天王号を付け、朱智天王と称したとされる。地名の「天王(てんのう)」はこれによるものとみられる。 現在の本殿(京都府登録文化財)は、慶長17年(1612)の再建で、一間社流造、屋根は檜皮葺である。向拝の木鼻の表には牡丹 、裏には狐を彫り出し、正面蟇股(かえるまた)には唐獅子や牡丹など桃山様式の華麗な彫刻が多くみられる。本殿への石段耳石には永正4年(1507)、天文10年(1541)の銘がある。 ○牛頭(ごず)天王像(京都府指定文化財) 頭上に牛頭をいただき、忿怒の表情をもつ三面の顔をもち、唐様装束の一木造の像である。平安時代後期の作で類例の少ないものである。 例祭10月18日 京田辺市教育委員会 京田辺市文化財保護委員会 社頭掲示板 |
朱智神社 御祭神 主神 迦爾米雷王命(かにめいかづちのみこ) 配神 建速須佐之男命 天照國照彦火明命 (社記に主神の御父) 大筒城真若王を祭り二座相殿とある。 御由緒 当社はもと、此地より西方三町余の所に有り、仁徳天皇の69年に、社殿を建てて、朱智天王と号しました。 迦爾米雷王は、開化天皇の曾孫で、神功皇后の祖父に当たられ、垂仁天皇の御代にこの地を治められて、その子孫朱智姓を名乗られました。須佐之男が相殿として祭られたのは、桓武天皇の御代であります。 その後清和天皇の御代に、大宝天王(牛頭天王)を現在の京都八坂神社に遷し毎年“榊遷し”の行事を行いましたが、何時よりか無くなりました。 明治維新に至り、神祇官に上請して天王社を古名の朱智神社に復し、明治6年6月、郷社となりました。 御祭礼 祇園祭 7月14日 例祭 10月18日 建造物 社殿は養和3年12月焼失し、その後数回再建されたが、現存のものは慶長17年に建てられ、昭和13年4月本殿は歴史上重要建築物に指定されました。 参道の石階、神殿の擬宝珠に、建造の年代が記されています。 なお、本殿内には牛頭天王の神像が安置され、藤原時代後期の作と称され、牛頭天王神像として、世に稀なものであります。 昭和32年10月1日 田辺町 田辺町郷土史会 社頭掲示板 |