朱智神社
しゅちじんじゃ


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【祇園社・祇園祭】

当社と感神院(祇園社、八坂神社)は関わりがあるという。
平安時代、貞観11年(869)大宝天王は、感神院(現在の八坂神社)そばの荒町に遷座され、その後、再び感神院に遷座された。以後、祇園祭の際には、当社の榊が祇園社に移される神事「榊遷」が、朱智家、息長家などに執り行われていたという。
近世には普賢寺郷に二座が置かれていた。7月13日、当座の座人が神社に奉じた真榊を、若衆が祇園社に移し、祇園祭の山鉾はこの榊を受けて出御していたという。
その後、神事は廃れた。現在当社でも、「祇園祭」(7月14日)が行われている。



【神仏習合】

近世は牛頭天王社と称した。本殿内には牛頭天王立像(藤原期)を今も祀る。
神宮寺があり、天王6坊があったと云うも、詳細は不明。神宮寺の廃絶年も不詳。
江戸末期宮寺として普賢寺があった。


【文化財】

朱智神社本殿 京都府登録文化財 一間社流造、檜皮葺
牛頭天王神像 京都府指定文化財 藤原時代(平安時代中期-後期)作、一本彫りの彩色立像、唐様装束、像高約1m


朱智神社

朱智は須知と訓べし○祭神在所等詳ならず
水島永政が式社詣記(天保年間)云、綴喜郡水取村大富氏系図を見るに、初は長岡氏也、長岡浄重と云人、天武天皇壬申年、将軍大伴吹負卿に從ひて戦功をあらはすよし見えたり、又長岡義幹と云人、天慶3年西海の逆賊追討の時、大將軍小野好古朝臣の旗下に從ひ、太宰府にて軍功をあらはすよし見えたり、又朱智村主諸陵頭外從八位下とあり、又家譜に、後朱雀天皇長慶2年義賀と云人あり、長岡蔵人次官朱智庄検定奉行職とあり、又康元元年に義次と云人あり、朱智庄公文蔵とあり、是に依て考るに、朱智は地名なること決きものか、識者猶考ふべしと記せり、さて此村には、権現と称する小社のみと云り、往昔此辺にぞ坐しけんか、今は廃亡せるにや、

神社覈録



郷社 朱智神社

本社創建年代詳かならす、されど延喜式内の古祠たり、神名帳考証に「迦爾米雷王、旧事紀云、山代大筒城真若王児迦爾米雷王、接雷訓豆知、豆與朱昔通」と見え、神祇志料に「今朱智天王と云ふ、蓋迦邇米雷王を祭る、興福寺官務牒、及朱智佐牙両荘園に見ゆ、此王は開化帝の皇子日子坐王の子、山代之大筒木真若王の子にして、息長帯比売命の祖父にまします、按するに官務牒に普賢寺は筒城郷朱智長岡荘にあり、息長山と號す、朱智天王を鎮守と為す」と記す、而して神社覈録に、「祭神等詳かならす」と記し、又水島永政の式社詣記(天保年間)に綴喜郡水取村大富氏系図を見るに「初は長岡氏也、長岡浄重といふ人、天武天皇壬申年、将軍大件吹負卿に從ひて戦功をあらはす由見えたり、又長岡義幹と云ふ人、天慶3年西海の逆賊追討の時、大將軍小野好古朝臣の机下に從ひ、太宰府にて軍功をあらはす由見えたり、又朱智村主諸陵頭外從八位下とあり、又家譜に後朱雀天皇長慶2年義賀と云ふ人あり、長岡蔵人次官朱智庄検定奉行職とあり、又康元元年に義次と云ふ人あり、朱智公文蔵とあり、是に依て考ふるに、朱智は地名なること明瞭なるべし、識者猶考ふべし」と記せり、或は曰く、仁徳天皇御字69年3月、筒城長岡西峯頂上に社殿を創立し朱智と號す(今社の西三丁許に一小祠あり是本宮なり)天武天皇未だ潜龍の時、当社の霊験に感じ、即位の後朱智氏を召して米を賜ふ、桓武天皇の世神託に依り今の地に遷る(此時大宝天王を同殿に祭る)後弘法大師此地に来り、大宝天王を改めて牛頭天王と称し、専ら普賢寺僧侶の司る所たりしが、王政維新の際朱智神社と復称す、明治6年6月、郷社格となり、同10年6月延喜式内朱智神社と定む。
社殿は、本殿、拝殿、御供所、氏子詰所等を具備し、境内3252坪(官有地第一種〉を有す。

明治神社志料




朱智神社

朱智は須知と訓べし○祭神在所等詳ならず
水島永政が式社詣記(天保年間)云、綴喜郡水取村大富氏系図を見るに、初は長岡氏也、長岡浄重と云人、天武天皇壬申年、将軍大伴吹負卿に從ひて戦功をあらはすよし見えたり、又長岡義幹と云人、天慶3年西海の逆賊追討の時、大將軍小野好古朝臣の旗下に從ひ、太宰府にて軍功をあらはすよし見えたり、又朱智村主諸陵頭外從八位下とあり、又家譜に、後朱雀天皇長慶2年義賀と云人あり、長岡藏人次官朱智庄検定奉行職とあり、」亦康元元年に義次と云人あり、朱智庄公文職とあり、是に依て考るに、朱智は地名なること決きものか、識者猶考ふべしと記せり、さて此村には、権現と称する小社のみと云り、往昔此辺にぞ坐しけんか、今は廃亡せるにや、

神社覈録



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