往古宇治田原より勧請されて成立した双栗社は、中世以降石清水八幡宮の影響をうけて椏本(あてもと)八幡宮という異称を生じ、祭神も加増されて祀られるようになつたものとみられる。 「双栗神社三座」とあることから、本来は天照皇大神、須佐之男命、事代主命の三神が祭神で、誉田別尊似下は椏本八幡宮と称せられるようになつたのちに祀られるようになつたものと思われる。 羽栗の羽の字が伝写の間に草書の双に訛り、ついに双栗神社となつたのであり、元来は羽栗神社と称していたとの説あり。 天治2年(1125)春2月に鳩峯、すなわち石清水八幡宮の鎭座する綴喜郡八幡町の男山より毎夜金色の光が差して、この地の椏の木の梢に輝くこと日の輝きのようであつた。七日後、この地の開拓先祖である橘氏に「八幡宮を此所に勧請して国家安全を祈らば我能庶民を守るべし」との夢告があり、やがて橘氏はこれを朝廷に奏して、ついに椏の木のもとに神祠を造立したと伝。 |
重要文化財 双栗神社本殿 祭神 天照大神・素盞鳴命・事代主命・応神天皇・比淘蜷_・仁徳天皇・神功皇后 当社は貞観元年(859)正月27日に、従五位下の神位を賜い延嘉の制には小社に列せられ、また「延喜式神明帳」にも山城国久世郡神社三座と記されてあり、古くから神社の存在していたことがわかる。 廷宝四年(1676)の奥書を持つ「椏本八幡宮起によると、応保2年(1162)当宮に勅使が立てられ、勲一等を受け、神田を賜い、椏本一品八幡大菩薩と号し、橘氏をもって神司と定められたという。 その後明治15年(1882)に至って、双栗神社と旧号に復されているが、創建時の本殿の形式については明らかでなく、古記に応保2年に造営され、明応3年(1494)には屋根の葺替えを行ったと記されており、現本殿はこの明応3年に建立されたものと考えられる。 昭和56年10月3日 久御山町郷土史会 社頭掲示板 |