双栗神社
さぐりじんじゃ


戻るボタン





【社名】

中世椏本八幡宮(あてもとはちまんぐう)と称した。
石清水八幡宮の神威が全国的に広がり、佐山郷一円の地が八幡宮の荘園となったころ、社名が変えられ八幡神崇拝に繋がっていったのであろう。
久御山町史によれば、
「当地(佐山村)は古代末から中世にかけて狭山郷(狭山荘とも)と呼ばれ、狭山は、古代末には石清水八幡宮極楽寺領の一つであった。・・・当社が椏本八幡宮と称されるようになったのは、石清水八幡宮の所領が拡大し、また八幡神が時代に相応しつつその性格を変える中世初期の頃と考えることができる」


【神宮寺】

『椏本八幡宮縁起』には社の近隣に五カ寺の神宮寺が存在してゐたことが記されている。佐山に安樂寺、西方寺、三福寺、浄福寺、林に藥蓮寺があつたという。安樂寺は後二條院の母后西華門院源基子(1269〜1355)により、西方寺は仁平・久寿(1151〜54)の頃、如一上人により、三福寺は叡尊(1201〜90)により、浄福寺は弘長年中(1261〜63)に、藥蓮寺は建長元年(1249)に叡尊により、それぞれ開基されたと伝える。これらの五カ寺は、いづれも明治初年まで神宮寺として存在していた。


【三郷山】

かっては、当社の東にある三郷山(標高366m)に御旅所があったといわれ、当社(双栗神社)と双栗天神社の御旅所であった。
戦前まで有名であった田原祭(三社祭・三郷祭ともいう)の御幸は、三郷山近くの“くつわ池”(三郷山の南東800mほど)でおこなわれた。三郷山とくつわ池の関係は、神の降り立ち給う山と、そこから流れ出る水を湛える灌漑用水池との関係である。
久御山町・宇治田原の両双栗神社の御幸がおこなわれた三郷山の御旅所とは俗称で、本来は、聖なる山に降臨する神を迎えに行くための御幸と考えるのが自然であり、異なった二つの地域から同一神を迎えに行くことを意味すると考えられる。
両社の氏子の祖先は元々一つの氏に属していたものとも考えられ、久御山町の三郷は、古い時期に宇治田原から分村移住し、その地に旧地の神社を勧請したが、神迎えは以前と同じ故地に対しておこなう慣例が永く伝え遺されてきたものと考えられる。


【文化財】

雙栗神社本殿 重要文化財(建造物) 明応3年(1494) 三間社流造、向拝一間、檜皮葺
雙栗神社玉垣 登録有形文化財(建造物) 江戸後期(1751〜1830) 木造、瓦葺、総延長44m
雙栗神社石鳥居 登録有形文化財(建造物) 元禄15年(1702) 石造、高さ6.5m、幅5.5m
雙栗神社拝殿 登録有形文化財(建造物) 天明5年(1785) 木造平屋建、瓦葺、建築面積36u
雙栗神社本殿門 登録有形文化財(建造物) 江戸後期(1751〜1830) 木造平屋建、瓦葺、間口2.4m


郷社 双栗神社

本社は其の創建年代詳かならす、神社覈録に「双栗神社三社、双栗は佐久里と読めり、祭神詳ならず、佐山村に在す、今椏本宮と称す(山城志)」とあり、按るに姓氏録(左京皇別)葉栗臣、彦姥津命三世孫穴命之後也、同(山城国皇別)葉栗、彦国葺命之後也、和名抄(郷名部)羽栗ともあれば、恐らくは伝写の間に、羽ノ字を草書の双に訛り、其双字を正しく書んとて双に改めしにて、原は羽栗ならん、かつ古事記、天押帯日子者、(中略)羽栗臣知多臣云々之祖也とあるは、尾張国葉栗郡知多郡の事と見ゆれど、続日本紀、宝亀7年8月癸亥山背國乙訓郡人羽栗翼賜姓臣(文徳実録にも羽栗氏人見ゆ)とあれば、此氏人の専ら此國にも住居せしこと知られたり、然れば此氏神を祭りて羽栗神社と称せしにはあらぬか、猶よく考ふべし(神社覈録)と考証せり、而して清和天皇貞観元年、正六位上より従五位下に進められ、(三代実録)式内小社に列す、中世依頼石清水八幡の分霊と為し、五個の供僧あり、西方三福浄福(佐山)安楽薬蓮なり、相伝ふ椏の大木ありければ椏本宮と云ふと(大日本地名辞書)又向神社の旧記にも「双栗神社三座、羽栗殖栗両郷にあり、今曰く左山村と見えたり」とあり、山城志に「貞観元年正月、授從五位下、在佐山村、今称棟本宮、與市田村林村、共預祭祀とあり、其後二條天皇御宇勅願所の号を賜ふ、正親町天皇御宇將軍より禁制下知状を下附せらる、又明正天皇寛永7年、徳川將軍より神田を下賜せられ、東山天皇元禄年間勅願を賜ふ、明治6年8月郷社に列す、同8年5月式内双栗神社と決定す、社段には、本殿、拝殿、御供所等を具へ、境内3179坪(官有地第一種)あり。

明治神社志料



双栗神社三座

双栗は佐久里と読り〇祭神詳ならず○佐山村に在す、今椏本宮と称す(山城志)
連胤按るに、姓氏録、(左京皇別)葉栗臣、彦姥津命三世孫建穴命之後也、」同、(山城国皇別)葉栗、彦国葺命之後也、』和名鈔、(郷名部)羽栗ともあれば、恐くは伝写の間に、羽ノ字を草書の双に訛り、其双ノ字を正しく書んとて、雙に改めしにて、原は羽栗ならん、かつ古事記、天押帯日子者、羽栗臣、知多臣、云々之祖也、とあるは尾張国葉栗郡知多郡の事と見ゆれど、続日本紀、宝亀7年8月癸亥、山背國乙訓郡人羽栗翼賜姓臣、(文徳実録にも羽栗氏人見ゆ)とあれば、此氏人の専ら当國にも住居しこと志られたり、然れは此氏神を祭りて、羽栗神社と称しゝにはあらぬか、猶よく考ふべじ、
神位
三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国正六位上双栗神從五位下、

神社覈録



戻るボタン


山城国INDEXへ        TOPページへ