天穂日命神社
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   【延喜式神名帳】天穂日命神社 山城国 宇治郡鎮座
   【延喜式神名帳】石田神社(大 月次/新甞) 山城国 久世郡鎮座

   【現社名】天穂日命神社
   【住所】京都市伏見区石田森西
       北緯34度56分23秒,東経135度48分6秒
   【祭神】天穗日命 相殿に天照大神 大山咋命
   【例祭】11月3日
   【社格】旧村社
   【由緒】創祀の年紀やその由縁は不詳
       天武天皇の代に勧請と伝
       貞観4年(861)10月18日、従五位に列せられた。「三代實録」
       天明3年(1783)造営
       明治10年はじめて京都府から式内社たる認定を得た。

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは石田集落東の台地上にあった。
        その後現地へ遷

   【祭祀対象】森または木霊?
   【祭祀】田中神社と称されていたが、継続性は認められる。

山科川の南。石田小学校東となり。市街地の中平地の神社。
もとは石田集落東の台地上にあった。宇治川をわたって山科に入り、相坂山(逢坂山)を越える道筋にあり、その岡の上にあった。逢坂山を越えようとする旅人は、この社にみな幣(ぬさ)を捧げたという。
天武天皇のとき創立。当初は田中神社と2社あったが後合祀とする。
現在の本殿は天明3年(1783)の造営で、造営当時は天照太神と日吉山王を祭り、田中神社と呼ばれていた。
古来この神社は「石田の森の社」と呼ばれ、恋の成就を祈る神とされていた。
この森は一名「田中の森」といわれ、そこから田中神社の名が起こった。
当社を久世郡石田神社に比定する説がある。


天穂日命神社

京都市伏見区石田鎮座 式内 天穂日命神社
一.祭神 天穗日命大神
  相殿 天照大神 大山咋命
延喜式神名帳に山城国宇治の郡天穂日命神社とあり仝神名帳考にも云う、三代実録に記する所に依れば清和天皇今より1100年前貞観4年6月15日壬子山城国天穂日命神社に従五位を授け奉るとあり。
山城誌に云う、田中明神 石田村石田の森にありと。
万葉集には「山階能石田森之須馬神亦奴左取向天吾波越住相坂山遠」とあり。
都名所図会には石田森醍醐の南にあり石田社は民家の中にありと。
山城国風土記残編に云う。藤岡の頭に神座天穂日命二座中冬を以て之れを祭る土人麦を以て神供料となすと、藤岡は石田の森のことにて藤の名所なりしなり。
神社便覧山州名跡誌に云う。白鳳年中今より約1300年前天武天皇の御宇此の里に忽然として一夜の間に積面(稲苗)数尺その上に白羽の矢あり白髪の老翁来現して曰く、此の地に宜しく天照皇大神と大山咋命を祭るべし然らば永く帝都南方の守護の明神たらんと依りて鎮座し給うと、而して積苗の所石田の森の内にあり今に苗塚と称して伝える所なり。
右にて老翁の告によりて奉祀する二神の鎮座ましますは田中神社と伝え二社ある筈なるも後に二社を合祀したるものと考う。
京都府庁に於いては明治10年6月考証確定の結果左の沙汰書を交付したり。
宇治郡第二組 石田村
其の村鎮座田中明神は延喜式内天穂日命神社に相違無之段今般詮議決定候条此の旨達候事
明治10年6月 京都府
当神社の旧記は皆焼失したる由なるも口碑に伝うる所によれば旧来より氏子農民の内に禰宜と唱うる家ありて其の数二戸ありと。
尚境内に天満宮始め数社を祭る、殊に其の一つに子守神社あり乳幼児の守り神にて燈籠に石を捧げて祈願すれば不思議に夜泣きが止まると近郊よりの来拝者多し。神器祭具等数百年前濃州或いは京都の敬神者よりの寄進になるもの数種あり。
古より有名な歌人によりて詠まれたる和歌今尚数多く伝わる。
当神社は以上の如く最も由緒正しき神社なり。

社頭掲示板



石田杜

境内は飛鳥時代から平安時代の和歌集「万葉集」(7世紀後半-8世紀後半)中に、「山代(やましろ、山背)の石田の杜(いわたのもり)」と歌われた。また、周辺の野を「石田小野(いわたのおの)」といい、枕詞になっている。現在も境内に小規模の鎮守の森がある。
 「山背の 石田の杜に 心おそく 手向けしたれや 妹に逢ひかたき」(12-2856、作者不詳)。山背の石田の社になおざりに、幣帛(ぬさ)を捧げたとでもいうのか。なぜあの人になかなか逢えないのだろう。
 ほかにも、、「山科の 石田の杜に 幣置かば けだし我妹に 直に逢はむかも」(9-1731)。
 「万葉集」巻13の長歌に、大和から近江への道すがらを歌い、途中に「山科の石田の杜」とあり、当社とみられている。
 「そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山背(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡り 岡の屋の 阿後尼(あごね)の原を 千歳(ちとせ)に 欠くることなく 万代(よろづよ)に あり通はむと 山科の 石田の杜の 皇神(すめかみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 我は越え行く 逢坂山(あふさかやま)を」(13-3236)  大和の国の奈良山を越えて、山背の管木の原、宇治川の渡り、岡の屋の阿後尼の原を、千年までも欠けることなく、万代までも通い続けようと、山科の石田の杜の神に幣を手向け、私は越え行く逢坂山を。
 境内に歌碑が立つ。「ひぐらしの 涙やよそに 余るらん 秋と石田の 森の下風」、順徳院、鎌倉時代の第84代天皇・順徳天皇(1197-1242)。
 「山科の 石田の小野の ははそ原 見つつや君が 山道越ゆらむ」(1730)、宇合卿、 奈良時代の公卿・藤原宇合(ふじわらの うまかい、694-737)は、右大臣・藤原不比等の三男。

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天穂日命神社

当社は延喜式神名帳に載る天穂日命神社に比定されており、天穂日命を祭る。現在の本殿は天明3年(1783)の造営で、造営当時は天照太神と日吉山王を祭り、田中神社と呼ばれていた。屋根は檜皮葺で、身舎正面の柱間が2間という、京都市内にはほとんど例のない二間社流造形式の建物である。柱間は正面に蔀戸(ほうと)、東側面前方に板扉を構え、他は板壁である。内部は棟通りに板扉を設けて、手前の外陣と奥寄りの内陣に分ける。細部に装飾的要素が見られるが、彫刻がおとなしく、派手なものではない。かなり早い時期から覆屋に入っていたようで、保存状態は良好である。平成15年4月1日、京都市登録有形文化財に登録された。
 境内は「万葉集」などで和歌の名所として知られた「石田の杜」に比定される。本殿以下の建物が樹林の中に建ち、良好な環境を保っており、本殿の登録と同時に文化財環境保全地区に指定された。
 京都市

社頭掲示板



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