天穂日命神社
あめのほひのみことじんじゃ


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【由緒】

雍州府志に「田中社 木幡の東北にあり、須麻神社と称す。また、石田と称す。天照大神・日吉二座なり。 伝へ云ふ、天武天皇の時、この里に、一夜の間に稲を積むこと数尺、その上に白羽の矢あり。老翁来現していはく、この地よろしく天照大神ならびに日吉社を鎮座すべしと。しかるときは、永く帝都南方の守護神とならんと。これにより鎮座す。その苗を積む処、苗塚と号す。今に存す」とある。
かって、天穂日命神社は石田村集落の東方丘陵地に鎮座していたが、その後、西方の現在地、田中明神が祀られていた石田の社に遷されたと伝。旧地は宇治川を渡って山科に入り、逢坂山を越える道筋にあり、その岡の上にあった。逢坂山を越えようとする旅人は、この社に幣(ヌサ)を捧げたという。
一方、「天穂日命神社は旧来よりこの地に鎮座あり、老翁の告によりて奉祀する二神の鎮座しますは田中神社と伝え二社ある筈なるも、後に二社を合祀したものと考える」との説もある。
明治10年当社が式内・天穂日命神社に比定された。



石田の杜(いわたのもり)

石田の杜は,京都市伏見区石田森西町に鎮座する天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ・旧田中神社・石田神社)の森で,和歌の名所として『万葉集』などにその名がみられます。
・山科の石田の杜に幣(ぬさ)置かばけだし我妹に直に逢はむかも
 〈『万葉集』巻九-1731〉 藤原宇合(ふじわらのうまかい)
・山代の石田の杜に心おそく手向けしたれや妹に逢ひ難き 
 〈『万葉集』巻十二-2856〉 作者不詳
現在は“いしだ”と言われるこの地域ですが,古代は“いわた”と呼ばれ,大和と近江を結ぶ街道が通り,道中旅の無事を祈って神前にお供え物を奉納する場所でした。この石田の杜の所在地については諸説あったようですが,大和から近江への道すがらを歌う長歌や,“石田杜”を解説する地誌などから,明治10年(1877),京都府庁が現在の場所がふさわしいとし,社名も現在の天穂日命神社に改称されました。

国立国会図書館レファレンス協同データベース

天穂日命神社

京都市伏見区鎮座 式内 天穂日命神社
御由緒
祭神 天穗日命大神
相殿 天照皇大神 大山咋命
一、延喜式神名帳・・・・山城国宇治の郡天穂日命神社とあり、同神名帳考には「三代実録によれば、清和天皇が今より千百余年前の貞観4年6月15日に、天穂日命神社に六位を、さらに18日に従五位を授けた」とある。
一、山城志・・・・田中神社は石田村石田の森にある。
一、万葉集・・・・山科の石田の杜の皇神に幣取り向けて我は越え行く逢坂山を。
一、郡名所図会・・・・石田の森は醍醐の南にあり、石田社は民家の中にあり。
一、山城国風土記残編・・・・藤岡の■に神座天穂日命二座、仲冬(陰暦11月)にこれを祭る。
  住民は麦を以て神饌料となす、藤岡は石田の森のことで、藤の名所である。
一、神社便覧山州名蹟・・・・今より1300余前の白鳳年中、天武天皇の御代のこと、この地に一夜のうちに苗が数尺積み上げられ、その上に白羽の矢が置かれていた。老翁が現れ、この地に天照大神、日吉両社を勧請すべきとし、帝都の両方は永く守護するだろうと告げて去った。その由縁ににより祀られたのが境内の「苗塚」だという。ここから考えると、かって石田の社には天穗日命神社が鎮座し、老翁のお告げにより祀られた田中神社もあったはずだが、何時の頃かに合祀されたと思われる
一、京都府・・・・宇治郡 第二組 石田村 村に鎮座する田中明神は、延喜式内の天穗日命神社に間違いないことを考証確定する。明治16年6月 京都府
一、当神社の旧記は昔焼失したが、言い伝えによれば、昔から氏子農民のうちに、「禰宜」と称する家が二戸あった。
一、当神社の本殿及び拝殿は江戸中期に建てられた。
一、また、境内には天満宮をはじめ数社を祀る。なかでも子守神社は、乳幼児の守り神であり、燈籠に石を投げて祈願すると不思議なことに夜泣きがやむとされ、近郷からの参拝者が多い。
一、神器・祭具などは、数百年前に美濃や京都の崇敬者より寄進されたものが数種ある。
一、古より有名な歌人によって詠まれた和歌が数多く伝わる。
一、当神社は以上のように由緒正しい神社である。
万葉集
山科の石田の小野の柞見つゝか君が山路越ゆらむ   字合卿
山科の石田の杜に布麻置かばけだし吾妹に直に逢はむかも
山きはの田中の森にしめはえてけふ里人の神まつるらん   前大納言為家
みしめ縄ひくは早苗のためならで田中の杜の神もうくらん
山品の石田の森を踏越せばけだし吾妹に直に逢はむかと    千載集
秋といへば石田の森のはゝそはら時雨もまたず紅葉しにけり    覚盛法師
ひぐらしの声やよそに余るらん秋と石田の森の下風    順徳院
山城いはたのもりのいはずとも心の中を照らせ月かげ   藤原輔尹朝臣
籾時雨日毎にふれば柳城のいはたの杜はいろづきにけり   衣笠内大臣 藤原家良
雉子なくいはたの小野の・・しめさすばかりなりにけるかな  修理大夫 藤原顕季
色かはる柞の梢いかならむいはたの小野に時雨降るなり  後鳥羽院御製
はゝそ散る石田の小野の木枯に山路しぐれてかゝるむら雲    中務卿親王
霧はればあすも来て見む鶉鳴く岩田の小野は紅葉しぬらん    順徳院御製
柞原色づきぬらし山城のいはたの小野にしかぞなくなる   惟宗忠景
しるやいかにいはたの小野の篠薄思ふ心は穂に出でずとも    正三位知家
時雨するいはたのをのゝ柞原ななにいろ変わりゆく   前中納言許[

社頭掲示板



天穗日命神社

天穂日は阿麻乃保比と訓べし、(延喜6年の日本紀寛宴に、得天穂日命、矢田部公望、「阿麻能褒■俄■農美飲野■云々と読り、」宣長は阿女と読たれど、今は寛宴和歌に從ふ、)〇祭神明らか也○石田村石田森に在す、今田中明神と称す、(山城志)
考証云今云縣宮、」(名勝志に、土人云、所祭宇治左府頼長公也云々、)これも平野坐縣神を、穂日命といふより推考ふれば、当らざるに非るか、』ざれど、土人の説をきく時は然らず、或人云、上離宮は、即ち朝日山の麓なり、山城風土記に、所謂朝日山神社にて、式にいふ天穂日命なる事決しと云り、朝日山神社は、天穂日命を祭るとはあれど、ぞれを上離宮とは定めがたし、連胤按るに、石田森は、萬葉集九に、山品之、石田乃小野之、母蘇原云々、同十二に、山科乃、石田社爾、布靡越者云々、同十九に、山科之、石田之森之、須女神爾云々とあるなど思へば、いと古く見えて既く神社と聞ゆれぱ、志ばらく山城志に從ふ、
類社
因幡國高草郡、出雲国能義郡天穂日命神社、各一座
神位 官社
三代実録、貞観4年6月15日壬子、山城國正六位上天穗日命神預官社、同月18日乙卯、授山城國天穗日命神從五位下、

神社覈録






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