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御鎮座は和銅4年(711)2月初午の日と伝えられている。「山城国風土記」の逸文に<秦中家ノ忌寸等の遠祖・伊呂具秦公が餅を的にして矢を射たところその餅が白鳥と化して飛び翔けり、留った山の峰に"稲"が生じた奇瑞によってイナリという社名になった>とある。 和銅4(711)秦氏が稲荷山上に創祀 弘仁7年(816)現地に社殿を建立。仁寿2年(852)祈雨奉幣以来朝廷からたびたび勅使が遣わされた。 文永3年(1266)式内社・御諸神社(四大神)や式内社・飛鳥田神社(田中大神)を伏見稲荷大社に合祀 |
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伏見稲荷大社 御鎮座 当社は全国各地でおまつりされている稲荷社の総本宮で、御鎮座は和銅4年(711)2月初午の日と伝えられている。「山城国風土記」の逸文に<秦中家ノ忌寸等の遠祖・伊呂具秦公が餅を的にして矢を射たところその餅が白鳥と化して飛び翔けり、留った山の峰に"稲"が生じた奇瑞によってイナリという社名になった>とあり、また「神祇官勘文」や「年中行事秘抄」などに引く「稲荷社禰宜祝等申状」には<この神は、和銅年中、始めて伊奈利三ケ峰の平処に顕坐してより、秦氏人等が禰宜祝として春秋の祭に仕えた>とある。更に社記「神号伝并後附十五箇条口授伝之和解」には<元明天皇の和銅4年2月壬午の日に、深草の長者・伊呂具秦ノ公が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ケ峰にまつったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓はゆたかな福を得た>と伝えているが、いずれにしても、ここ深草の里は欽明天皇即位前紀(6世紀前半)「深草住」いの「秦大津父」の存在、それにおそらく、在地豪族秦氏の経営によっていたであろう、山背大兄王自害にかかる「深草屯倉」の存在(皇極天皇2年(643)紀11月条)など古くから秦氏とは極めて深いかかわりをもつ。加えて、稲荷山麓に、これら秦氏が付貫されるはるか以前に経営されていた弥生後期の「深草遺跡」の存在とも考え合わせると、信仰の起源は、相当古くさかのぼると考えられる。 御祭神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ) 下社<中央座> 佐田彦大神(さたひこのおおかみ) 中社<北座> 大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) 上社<南座> 田中大神(たなかのおおかみ) 田中社<最北座> 四大神(しのおおかみ) 四大神<最南座> これらの五柱の御祭神名は、稲荷大神の広大なる御神徳の神名化されたもので、主神は下社の宇迦之御魂大神で、田中社は下社の摂社であり、四大神は中社の摂社である。 御神号わが国の最古の文献の一つとされる山城国風土記の逸文には、イナリを「伊奈利」と書いている。イナリとは、イネナリ・イネニナルのつづまったもので、人間生活の根源であった稲によって、天地の霊徳を象徴した古語とされているが、「伊奈利」を「稲荷」と記録されている最初のものは、類聚国史の淳和天皇の天長4年(827)正月辛巳の詔であるが、扶桑略記の和銅6年5月甲子の条に<諸国郡郷名著好字、又令作風土記>とあることよりすれば、風土記勧進のときには、すでに「稲荷」なる"好字"が用いられていたとも考えられ、風土記に「伊奈利」とあるのは、その原史料にあった古い用字法が、そのまま使用されたものとおもわれる。 御神徳 社記に、当社はく衣食住ノ大祖ニシテ万民豊楽ノ神霊ナリ>(稲荷谷響記)と、また<上ハ天子ヨリ下ハ万民ニイタル幸福豊楽ノ神明ナリ>(神号伝并後附十五箇条口授伝之和解)とある。平安の昔から稲荷山が民衆信仰の"お山"であったことは、女流日記文学の第一にあげられる「蜻蛉日記」或いは清少納言の「枕草子」、また和泉式部の筆によってしのぶことができる。そして今日では商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として、信仰は全国にあまねき、その御神威は日本のすみずみから遠く海外にまでおよんでいる。 沿革 淳和天皇の天長4年(827)丁未正月辛巳、天皇の御体が不健のため占を求められたところ先朝の御願寺(東寺)の塔木として稲荷神社の樹を伐られた罪たたりであることがわかり、朝廷は早速、当社に使いをつかわされた。そしてこのとき、はじめて「従五位下」の神階がさずけられ、爾来年とともに累進し、ついに天慶5年(942)「正一位」の極位にのぼった。この間、承和12年(845)には「名神」に列し、また延喜式(927撰)では「名神大社」とみえ、ついで村上天皇応和3年(963)には皇城の巽(東南)の鎮護神と定められ、後朱雀天皇の長暦3年(1039)には二十二社の上七社にくわえられた。 また、後三条天皇の延久4年(1072)に、はじめて当社と祇園社とに行幸があり、これを<両社行幸>と称し、歴代の慣例となって鎌倉時代にまでおよんだ。さらに、中世、熊野信仰が盛んになるにつれ、稲荷明神が熊野参詣の道中を守護する誓いがあるとの信仰がさかんになり、当社に「護法送り」を修する風習があって、熊野御幸の還御には、必ず奉幣の儀が行なわれていた。 明治4年5月に官幣大社に列格し、昭和21年11月に宗教法人法によって「伏見稲荷大社」と改称し、今日にいたっている。 社務所発行 伏見稲荷大社略記 冊子 平成8年 |
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伏見稲荷大社 信仰・沿革稲荷大神は、もともと五穀をはじめとするすべての食物・蚕桑のことをつかさどる神として信仰されていたが、平安期にいたって、当社が東寺の鎮守とされてよりは朝野の尊崇をあつめ、社運隆盛するとともに、その信仰も一段と広く伝播していった。更に、中世から近世にかけて工業が興り商業が盛んになると、神格も従来の農業神から殖産興業神・商業神・屋敷神へと拡大し、農村だけでなく広く大名・町家の随所に勧請・奉祀されるようになった。現在では稲荷神社の数は約三萬を数え、わが国神社八萬余社の、ほぼ三分の1を占めるが、これに個人の邸内祠等を加えれば殆ど無数に近い。 淳和天皇の天長4年(827)丁未正月辛巳、天皇の御体が不健のため、占を求められたところ、先朝の御願寺(東寺)の塔木として稲荷神社の樹を伐られた罪たたりであることがわかり、はじめて「従五位下」の神階がさずけられ、爾来、年とともに累進して、ついに天慶5年(942)「正一位」の極位にのぼった。この問、承和12年(845)には「名神」に列し、また延喜式(927撰)では「名神大社」とみえ、ついで村上天皇の応和3年(963)には皇城の巽(東南)の鎮護神と定められ、後朱雀天皇の長暦3年(1039〕には二十二杜の上七杜にくわえられた。 また、後三條天皇の延久4年(1072)に、はじめて当杜と祇園社とに行幸があり、これを《両社行幸》と称し、歴代の慣例となって鎌倉時代にまでおよんだ。さらに中世、熊野信仰が盛んになるにつれ、稲荷明神が熊野参詣の道中を守護する誓いがあるとの信仰がさかんになり、当杜に「護法送り」を修する風習があって、熊野御幸の還御には、必ず奉幣の儀が行なわれていた。 明治4年5月に官幣大社に列格し、昭和21年11月に宗教法人法によって「伏見稲荷大社」と改称し、今日にいたっている。 御祭神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ) 下社《中央座》 佐田彦大神(さたひこのおおかみ) 中社《北座》 大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) 上社《南座》 田中大神(たなかのおおかみ) 田中社《最北座》 四大神(しのおおかみ) 四大神《最南座》 これらの五柱の御祭神名は、稲荷大神の広大なる御神徳の神名化されたもので、主神は下社の宇迦之御魂大神で、田中社は下社の摂社であり、四大神は中社の摂社である。 御神号わが国の最古の文献の1つとされる山城国風十記の逸文には、イナリを「伊奈利」と誌している。イナリとは、イネナリ・イネニナルのつづまったもので、人間生活の根源であった稲によって、天地の霊徳を象徴した古語とされている。そして「伊奈利」を「稲荷」と書くにいたった最初のものは、類聚国史の淳和天皇の天長4年(827)正月辛巳の詔であるが、扶桑略記の和銅6年5月甲子の條に《諾国郡郷名著好字、又令作風土記》とあることよりすれば、風土記勧進のときには、すでに「稲荷」なる好字が用いられていたとも考えられ、風土記に「伊奈利」とあるのは、その原史料にあった古い用字法が、そのまま使用されたものと思われる。 御神徳 社記に、当社は《衣食住ノ大祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ》/稲荷谷響記〕と、また《上ハ天子ヨリ下ハ萬民ニイタル幸福豊楽ノ神明ナリ》(神号日伝和解)とある。平安の昔から、稲荷川が民衆信仰のお山であったことは、女流日記文学の第1にあげられる「蜻蛉口記」、あるいは清少納言の「枕草子」、また和泉式部の筆によってしのぷことができる。そして今日では、商売繁員・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として、あまねく信仰をあつめ、その御神威は日本の津々浦々はもとより遠く海外にまでおよんでいる。 御鎮座当社の起源については「山城国風土記」の逸文に《秦中家ノ忌寸等の遠祖伊呂具秦公の的にして射た餅が白鳥と化して飛び翔けり、その留った山の峰に稲が生じた奇瑞によって、イナリという社名になった》とあり、また「神砥官勘文」や「年中行事秘抄」などに引く「稲荷杜彌宜祝等申状」には《この神は、和銅年中、始めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、秦氏人等が彌宜祝として春秋の祭に仕えた》とある。さらに杜記(口授上五箇條之解)には《元明天皇の和銅4年2月壬午の日に、深草の長者伊呂具秦ノ公が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た》と伝えているが、いずれにしても、ここ深草の里は秦氏とは極めて深いかかわりをもつ。そして当杜の御鎮座は和銅4年(711)2月初午の日とされている。しかし、信仰の起源は、これよりも更に古くさかのぼる。 由緒書 |