伏見稲荷大社
ふしみいなりたいしゃ


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【祭神】

宇迦之御魂大神、佐田彦大神大宮能売大神以上三座、別に田中社(大己貴神)及び四大神(五十猛命、大屋姫、孤津姫、事八十神)を加えて五座ともいう。嘉祥3年まではただ稻荷神とのみあつて一座のごとく見えるが、天安元年以後始めて稻荷神三前とあり、また稻荷上中下三名神とも記されるようになる。はじめ和銅にはただ一神であつたのを、後別に二神を同じ山に祀り、もとの神と合せて稻荷神社三座と称したのを、いつしか官でもこれを認め、本神同様に取扱うようになつたものと考えられる。


【神仏混淆】

神佛混淆時代には、祭神それぞれに本地仏が擬定せられ、下宮大宮は如意輪、命婦は文殊、田中は不動、中社は千手、上社は十一面などと伝える。


【由緒】

伊奈利社創祀前史
欽明天皇が即位(539または531)される前のことについて、『日本書紀』では次のように書かれています。
欽明天皇がまだご幼少の頃のある日のこと「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」という夢をみました。天皇は目覚めてから早速方々へ使者を遣わされて探し求められたところ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいたのです。
天皇はこれを大いに喜ばれて早速彼を宮廷に呼び寄せられ、「今までに何事かなかったか」と問われたところ、彼は「別段何もありませんでしたが、伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その“おおかみ”は二匹とも命を全うできました」と答えました。そこで天皇は、「夢で見たとおりの人に会えたのは、おそらく神のおかげであろう」と仰せられて、彼を厚く遇せられ、やがてにぎわいを呈するようになり、即位されると共に、彼を今でいう大蔵省の重席に任じたとあります。
稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。
ここへ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばして、ついに秦大津父の輩出となったのですが、皇極天皇2年(643)11月のこと、当時の宮廷において権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の御子・山背大兄王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、王の従臣たちは、深草屯倉に逃れられるようすすめたとあります。この「屯倉(みやけ)」とは、朝廷および皇族の直轄領のことで、その運営については、在地の豪族、深草屯倉の場合は秦氏族の勢力に期待するところが大きかったのであろうと考えられています。この頃の族長は誰であったかわかりませんが、大津父から伊呂巨(具)に至るちょうど中間に相当する時期に、深草の里に秦氏族の存在が予測できるのはたいへん興味深いことです。
平安時代初期に編集された数少ない書物の中に、『新撰姓氏録』という記録があります。これは弘仁5年(814)6月に奉られたもので、その当時近畿に住んでいた氏族の姓および出自等が伝承されていた1,182氏を、皇別、神別、諸蕃に分けて31巻に編んでいます。
諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化しました。その際に金銀玉帛等を献じ、仁徳天皇の御代にこの127県の秦氏を諸郡に分置して蚕を飼育させ、絹を織らせて献上させました。天皇は、これらの絹織物は肌膚(ハダ)に温かであると詔せられ、その時に「波多公」の姓を賜ったとされています。降って雄略天皇の御代に、秦公酒という者が、天皇の御前に絹帛をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜ったとあります。
以上の来歴は、実際にはあまりあてにならず、近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられています。ともかく、雄略天皇の御代には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でていた一方、大津父が大蔵省に任官されたように計数に明るかったようです。このようにして渡来あるいは帰化氏族は、秦氏に限らず、当時の先進地域であった大陸および朝鮮半島の文物をわが国にもたらし、これが後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われます。例えば、記録、出納、徴税、外交事務それから文字使用を業とするのは、もっぱらこれらの氏族であったと考えられています。朝廷の渡来あるいは帰化氏族に対する処遇がよかったことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろうとされています。彼らはたいてい畿内の小豪族としての生活を認められ、それぞれの特技を生かした専門職の地位を与えられていたようです。
大津父の時代を下った山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされています。たしかなことは不明ですが、深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようです。この太秦の秦氏族は、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしてきていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えたとされています。また一方において、山背国における古くからの由緒正しい豪族である賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結んでおり、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。言うまでもなく賀茂県主族は天下の名社・賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族が彼と結びつくことによってその名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、そうなることによっておそらくは当時としては近代的な文化及び経済などの実をとったのであろうと考えられています。
こうして太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。
伊奈利社ご鎮座説話
稲荷大神のご鎮座に関する最も古い記録とされているのは、『山城国風土記逸文伊奈利社条』です。これにはまだ和銅4年(711)云々というご鎮座年代は出てきていません。しかし「秦中家忌寸《はたのなかつえ いみき》等遠祖伊呂巨(具)秦公」の時代に、彼が「積二稲梁一有二冨祐一」であったところから「用レ餅為レ的」したところ、それが「白鳥」と化して山の峰に飛んでゆき、「生レ子」んだ或いは稲が生じたので、その奇瑞によって「遂為レ社」した、そして「其苗裔悔二先過一而抜二社之木一殖レ家祷レ命也」とあり、「為レ社」した者が「伊呂巨(具)秦公」であったことが明記されています。この伊呂巨(具)について、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」によると、「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」と記され、先にも述べた通り賀茂県主の子孫と称されています。
ここに和銅4年という年代が出てくるのですが、この年にご鎮座になった由縁として、この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたので、勅使を名山大川に遣わされて祈請させられたときに神のご教示があり、山背国の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた、この祭祀された日こそが和銅4年の2月初午であった、との伝承があります。これは全くそのとおりだと言えない面もありますが、唐突にこの日が伝承されたのではなく、やはり同氏族の間に何らかの明記すべき由縁があったものと推測されるのですが、それがどのような事象であったのか今のところはわかっていません。しかし強いて言えば、一族の族長、すなわち祭政を一人で行うあり方の中から、大神の祭祀を専門にする職掌(先に見た系図で「稲荷明神御鎮座ノ時禰宜トナル」と記されているのがこれに当たる)が確立した時期であると考えてもよいのではないでしょうか。
稲荷社のあけぼの
先の系図によれば、「風土記」に出てくる“秦中家忌寸”は、伊呂巨(具)から数えて九代目に相当し、「賜姓秦忌寸、禰宜、嘉祥3年3月従六位上」と記録されています。この中家に至るまで、稲荷社祠官は代々禰宜1名でありましたが、彼の代にその弟“森主”が「祝、嘉祥3年3月従六位下」と記録され、この頃から禰宜・祝の2員制に移行したことがわかります。いわば中家が奉仕していた時期は、中家の譜に忌寸賜姓のことが記されており、和銅4年が記憶されるべき年であったと同様に、稲荷社にとっては重要な時期であったろうことが予測されます。またそれは、稲荷大神に初めて神階奉授がなされたことからかもしれません。この神階奉授のいきさつについては淳和天皇の御代・天長4年(827)正月の詔に、「頃間御体不愈」によって「占求留爾稲荷神社乃樹伐礼留罪祟爾出太利止申須然毛此樹波先朝乃御願寺乃塔木爾用牟我為爾止之弖東寺乃所伐奈利今成祟」(天皇の健康がすぐれないために占いを求められたところ、先朝の御願寺=東寺の塔をつくる材木として稲荷社の樹を伐った祟りであることがわかった)、ということで、「畏天」内舎人の大中臣雄良を遣わして「従五位下乃冠授奉理治奉(従五位下の神階が授けられた)」とあって、まさに大神の御神威が大きく顕れ、以降の勇躍を約束されるような一大展開期であったことがうかがえるのです。
延暦13年(794)に長岡京から山背へ都が遷されたとは言うものの、初めのうちはその市街地の区画整備がされている程度でした。宮廷が完全に整ってから新京もだんだんと賑わいだしましたが、都の正面玄関に相当する羅城門の東西に建立された「東寺」「西寺」の造営さえも長くかかっていました。東寺の造営が空海(弘法大師)の手に委ねられたのは、大師が大同元年(806)に留学先の唐から帰朝してまもなくの弘仁14年(823)のことですが、この頃から伽藍構築もだんだん軌道に乗り、その工事の途中に、先に述べた稲荷大神のご神威が顕れたのでした。
都が遷ってくるだけでも重大事であった上に、大神のお力が天下に知れわたり、それを畏って神階奉授がなされる。これはまさに一社の重大事として記憶されて当然のことです。“忌寸”の姓を賜った中家の奉仕時期は、ちょうどこの頃でした。伊呂巨(具)が「秦中家忌寸等遠祖」と称されたのと同様、中家も100年ほど後に「秦氏祖中家云々」と良く似た表現で記録されています。天暦3年(949)頃の『年中行事秘抄』という文献には次のように書かれています。
― 稲荷神 ―
 件神社立始由慥無所見
 但彼社禰宜祝等申状云此神和銅年中始顕坐
 伊奈利山三箇岑平処是秦氏祖中家等抜木殖
 蘇也
 即彼秦氏人等為禰宜祝供仕春秋祭等
 依其霊験有被奉臨時御幣相次
 延喜八年故贈太政大臣藤原朝臣
 修造始件三個社者
この文には、中家が秦氏祖と書かれていること以外にもう一つ重要な部分があります。それは延喜8年(908)、都が平安京に遷ってから約100年ほど後に、歌舞伎などでは悪役に仕立てられ、菅原道真公の政敵とみなされている藤原時平公によって、初めて三個社の御社殿が造営されたと書かれています。

公式HP



伏見稲荷大社

伏見稲荷大社 ふしみいなりたいしゃ
京都市伏見区深草藪之内町。旧官幣大社 (現、単立神社)。
世に伏見稲荷として知られ、全国三万余を数える稲荷神社の総本社。祭神宇迦之御魂大神(下社・中央座)・佐田彦大神(中社・北座)・大宮能売大神(上社・南座〉・田中大神(田中社・最北座)・四大神(四大神社・最南座)の五柱で、これを稲荷大神と称する。元明天皇の和銅4年(711)2月初午の日に、深草の長者・伊呂具秦ノ公が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利の三ケ峰に祀ったのに始まる。以後秦氏一族が禰宜・祝となって祭祀に奉仕した。淳和天皇の天長4年(827)社木を伐って東寺の塔木としたところが神の崇りがあり、よって「従五位下」の神階をさずけられた。
爾来年とともに累進し、天慶5年(942)ついに「正一位」の極位にのぼった。それと相まって朝廷よりしばしば奉幣があり、封戸・神田の寄進がなされた。また承和10年(845)には「名神」に列し、『延喜式』では「名神大社」に列せられ、祈年・月次・新嘗の案上及び祈雨の官幣に預かり、ついで村上天皇応和3年(963)には皇城の巽の鎮護神と定められ、後朱雀天皇の長暦3年(1039)二十二社の上七社に加えられて、朝延から特に篤い礼遇に浴した。また後三条天皇の延久4年(1072)に、初めて当社と祇園社とに行幸があり、これを「両社行幸」と称し、歴代の慣例となって鎌倉時代にまで及んだ。更に中世、熊野信仰が盛んになるにつれ、稲荷明神が熊野参詣の道中を守護する誓いがあるとの信仰が盛んになり「護法送り」を修する風習があって、熊野御幸の還御には、必ず奉幣の儀が行われた。明治4年(1871)官幣大社に列各し、昭和21年、宗教洪人法により伏見稲荷大社と改称した。
稲荷大神は、もともと五穀をはじめとするすべての食物・蚕桑のことをつかさどる神として信仰されていたが、平安期にいたって、当社が東寺の鎮守とされてからは朝野の尊崇を集め、社運隆盛するとともに、その信仰も一段とひろく伝播していった。
更に中世から近世にかけて商工業が盛んになると、神格も農業神から殖産興業神・商業神・屋敷神へと拡大し、農村だけでなく広く大名、町家の随所に勧請、奉祀されるようになつた。現在では稲荷神社の数は三万余を数え、わが国の神社のほぼ三分の一を占めるが、これに個人の邸内祠を加えればほとんど無数に近い。境内は、稲荷山の山上山下を含む約858000uという広大なもので、その西麓から山の口に御本社が鎮座し、山上と山中の神跡の周囲には一万数千基というおびただしいお塚が群立し、山上に、至る参道には一万余の朱の鳥居が奉建されている。 当社はもと稲荷山に下社・中社・上社があったが、のち田中大神と四大神とが祀られて五社となった。応亡の乱でそれらが焼失し、その後現在の如き、五社相殿の本殿が建立された。現在の本鍛は明応8年(1499)の建立で、稲荷造と呼ばれる檜皮葺五間社流造、56坪余である。明治42年(1909)国宝に指定され、現在は重要文化財である。
例祭は稲荷祭と称し、神幸祭は4月20日に最も近い日曜日、還幸祭は5月3日に行われる。神幸祭当日から御旅所に御駐輦の神輿五基が、5月3日、それぞれの神座車に奉戴され、数々の奉讃車とともに市内を巡幸して還御される。稲荷祭は元来、この還幸祭をさしていったが、今日でば神幸・還幸の両祭に用いられ、先年までは、神幸は4月二の午の日、還幸は5月初卯の日に行われていた。その他、特殊神事の主なものは、大山祭(1月5日〉・奉射祭(1月12日)・初午大祭(2月初午日)・田植祭(6月10日)・火焚祭(11月8日)である。昭和2年に大社付属稲荷講社が組織されたが、同38年これを発展的に改称・改革して、伏見稲荷大社講務本庁が出来、稲荷信仰の普及につとめている。講員は現在約五万名、地方組織の支部及び扱所は北海道から九州にいたる約700ヵ所である。

神社辞典



稻荷神社三座 並名神大月次新嘗

稻荷は伊奈利と訓べし○祭神倉稻魂命一痙、(下社)天御孫尊一座、(中社)伊弉册尊一座、(上社〇以上社家説)〇稻荷村に在す、(比保古伝、今社地藤尾郷也、以舎人親王之神霊祭此地号藤尾大明神也、其後以稲荷三神迎此地以藤尾神■藤森号藤森天皇弓兵政所、今藤尾号稲荷村、)○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、山城国稲荷神社三座、」祈雨祭神八十五座(並大)云々、稲荷三座、○江家次第、(祈年穀奉幣)稻荷、(四位)」廿二社注式云、(上七社)稻荷、(幣数三本)○拾芥抄云、三十番神、稻荷、(廿二日)○山城風士記云、(廿二社注式所引用)称伊奈利者、秦中家忌寸等遠祖、伊呂具秦公、積稻梁有富祐仍用餅為的者、化成白鳥飛翔居山峯、子坐遂為社名、各至其苗裔、悔先過而抜社之木、殖家疇■祭之、其木蘇者得福、殖木枯者不福、
豊秋津島卜定記伝、辰巳乃方仁当天、倉稻魂乃垂跡有利、夫此神波、百穀於播玉布故爾、名介奉留、神代乃昔與利、此峯爾向伊玉母不知、只三峯仁玉之和、人皇四十三代元明天皇和銅4年辛亥2月11日仁垂跡寸、誠仁諸人哀憐乃御心深久、蒼生乃作牟物波、草乃片葉末天、百乃災於攘玉伊、剰随身乃宝於安久保事母、皆此神態奈礼波、誰賀此神於疎久世牟、云々、」さて祭神の事を、頭注云、本社倉稻魂神也、此神素盞嗚尊女也、母大山祇神女大市姫也、倉稻魂神播百穀神也、故名稲荷歟、伊弉諾尊御女、此名有之、一座素盞嗚、一座大市姫也、秘中之秘也、以上三座也、」諸社根元記云、下社(大宮命)田中社(廿二社注式云、下社大宮女命、)中社(大宮)四大神(注式云、倉稲魂命、神播百穀神也、)上社客神十禅師、(十禅師者瓊々杵尊御座也○注式云、猿田彦命、三千世界地主神是也、」)神祇拾遺云、(稲荷本縁)稲荷者此山地主神、號、荷田神、此処ニ倉稻魂神ヲ祭ル、故ニシカ云フト云々、本殿宇加御魂、(父地主素盞嗚、母大山祇女大市姫、)又豊宇氣、(傳有之)第二殿素盞嗚尊、第三殿大市姫、(巳上秘々中甚深事)田中社、(大巳貴命)四大神、(五十猛命、大屋姫、孤津姫、事八十神)巳上二神ヲ加ヘテ五座ト称ス、弘長3年ニ告有テ、文永丙寅正月16日ニ併セ奉ル、上中下ノ三座ハ和銅4年2月戊午日三峯ニ出顕也、(この拾遺は、稲荷五座と云し後を記せるなれば、爰には無用也といへども、今世に稲荷社は五座とのみ心得るから、其二座は後に加へし証に引置る也、』抑三座の祭り方説々同じからず、いつれに從ふべき便、なし、故に今社家説を本注に載す、○廿一社記云、稲荷社常説ニハ弘法大師東寺ニ住時、御弟子檜尾僧都実恵卜云人、東寺南大門ニ被徘徊、老翁老嫗異躰ナルガ、数多男女眷属卒テ、稲ヲ荷ヒテ自遠行疲タル氣色ニテ、南大門ニ被休息、事ノ体勅也人ト不見、成ニ奇異思大師ニ告申、大師出玉ヒテ、此人々召請、中門ノ下ニテ在御物語、何所へト尋玉へバ、比叡ノ阿闍梨(伝教大師御事也)
我寺ヲ守護坐ト在招請答玉フ、彼ニハ比叡神専鎮守、坐当寺佛法ヲ守玉ヘト宣ヒケンバ、承諾坐、仍大師與此神ト同道有テ、勝地ヲ揮デ、今ノ所鎮座、即東寺鎮守云々、毎年祭祀ニハ東寺へ入リ玉フ、中門ノ供御トテ寺家供之、亦太マカリトテ必供之、大師ノ御時旧儀也云々、稻ヲ荷ヒ玉ヒシヨリ稻荷神ト申、中古以来官社ニ列シ、加上七社無上ノ神ニ坐也、本社事猶可酔尋之、(廿二社本縁同)廿二社注式云、或即記、人皇五十二代嵯峨天皇弘仁12年夏、智証大師参熊野、以顯密法還向之時、過紀伊國石田川下稲羽里之間、一人老翁多刈稻荷之、二人女亦戴稲、不知行方失訖、其夜大師夢、一人老翁者上宮、二人女下中社云々、」是等は附會の説に依て、取用いずといへども、博覧のために挙ぐ泥むべからず、猶旧来の記文等、伴信友が著しゝ験の杉といふ書に託て略す、
神位、名神
類聚国史、天長4年正月辛巳、詔曰、天皇詔旨止稲荷神前爾申給閉止申佐久、云々、内舎人從七位下大中臣雄良乎差使天、礼代爾從五位下乃冠授奉理治奉留、云々、続日本後紀、承和10年12月戊午、奉授從五位下稲荷神從五位上、同11年12月丁亥、奉授從五位上稲荷神從四位下、同12年12月甲戌朔、從四位下稻荷神預名神例、安徳実録、嘉祥3年10月辛亥、進山城國稻荷神階授從四位上、天安元年4月乙酉、在山城國從四位上稻荷神三前各授正四位下、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國正四位下稻荷神三前並正四位上、同16年閏4月7日乙巳、山城國正四位上稻荷上中下三名神、並奉授從三位、扶桑略記裏書、延喜元年9月15日、稻荷三箇所大明神奉授正三位、諸神記云、天慶3年8月28日從三位、日本紀略、天慶3年9月4日、奉贈正二位稻荷神從一位、
官幣 神寳
文徳実録、仁寿2年7月乙亥、遣使者向稻荷名神、奉幣祈雨、即日得甘■、」三代実録、貞観12年11月17日乙巳、分遣使者諸社、奉鋳銭司及葛野鋳銭所新鋳銭、稻荷社使神祇大祐正六位上大中臣朝臣常道、」同14年3月23日癸巳、今春巳後、内外頗見怪異、由是分遣使者諸神社、奉幣、神祇伯從四位下藤原朝臣広基為稻荷社使、」元慶4年2月5日己巳、遣正五位下行神祇大副大中臣朝臣有本於稻荷社、奉幣、告以太極殿成、
鎮坐
廿二社注式云、元朋天皇和銅4年、始顯坐伊奈利山三箇峯平処、是秦氏祖中家等抜木殖蘇也、
藤森社縁起云、弘仁7年、弘法大師稻荷大明神爲勧請、藤森天王敷地之内、所望之由被達叡聞、被伺申当社神慮之処、可奉借之由依有神託、三山之麓勧請之、自爾以來、號彼所於稻荷矣、
修理
年中行事秘抄云、延喜8年、故贈太政大臣藤原朝臣(時平)修造始件三箇社者、(注式同)東鑑云、文治6年2月10日甲子、一、造稻荷社造畢覆勘事、右上中下社正殿、為宗之諸神神殿、合期造畢、無事令遂御遷宮、候畢、自余舎屋等事、又以非無其営、勧修行事、季遠、懈暖之上、奸監、仍雖相副俊宗法師候、云六條殿門築垣事、云大内修造、彼此相累候之間、自然遅々、更以不存忽緒之儀候、巳於不足材木分、悉交量直米、令沙汰宛都鄙之間候畢、
行幸
百練抄、延久4年3月26日始行幸、(後三條院也)岡屋関白記、建長2年4月5日、太上皇自熊野還幸、夜前着御鳥羽、今朝幸稻荷、巳時斗還幸御所、
社職
廿二社注式云、秦氏人等為禰宜祝供仕春秋祭、
焼亡
百練抄、嘉禄2年2月13日、午時稻荷上中両社旅所(八條坊門猪熊)焼亡、是大行事則正(旅所神主)被改易之間、則正愁望之余参籠下殿焼死云々、御躰同焼失云々、」寛元3年11月29日庚中、稻荷上社焼亡、同年12月29日庚寅、被発遣稻荷一社奉幣使、又被行軒廊御卜、同社焼亡事、
雑事
文徳実録、天安2年6月壬辰、此夜、左近衛大宅年麻呂於北野見之、当稲荷神社、空中有両鶏相闘、其色似赤、相闘之間、毛羽散落、地雖相隔、見似眼前、良久而止、此語類妖妄、而記怪也、百練抄、寿永2年8月21日、武士乱入、稻荷社奉取御正髄弄之、

神社覈録



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