御香宮神社
ごこうのみやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】御諸神社 山城国 紀伊郡鎮座

   【現社名】御香宮神社
   【住所】京都府京都市伏見区御香宮門前町174
       北緯34度56分5秒,東経135度46分3秒
   【祭神】神功皇后
       (配祀)仲哀天皇 応神天皇 宇倍大明神 瀧祭神 河上大明神 高良大明神 仁徳天皇 菟道稚郎子尊 白菊大明神

   【例祭】10月1日 例祭 10月10日 例祭
   【社格】旧府社
   【由緒】貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。
       清和天皇の御代境内に大変香りの好い水が湧きでたので「御香宮」と称した
       弘安3年(1280)元軍討平祈願の奉幣
       応仁の乱で兵火焼失
       文禄3年(1594)豊臣秀吉城の艮(うしとら)にうつし社領300石を献
       慶長10年(1605)徳川家康またもとの所に社殿を造営
       慶応4年(1868)正月伏見鳥羽の戦で薩摩藩の屯所になった

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初この地に鎮座
        文禄3年(1594)豊臣秀吉伏見城築城に際し城の艮(うしとら)に遷
        慶長10年(1605)徳川家康またもとの所に社殿を造営

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 御香宮神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・能楽堂・絵馬堂・社務所

   【境内社】太神宮・松尾社・東照宮社・伏見義民之碑・御香社

御諸神社の論社とされているが、現在御香宮神社では式内社であることを言っていない。


由緒

日本第一安産守護之大神と称せられる神功皇后を主祭神とし、仲哀天皇、応神天皇ほか六柱の神をおまつりする。仲哀天皇は、日本武尊の第2皇子で御身の丈高く容姿端正、御年33歳でご即位。翌年、気長足比売をたてて皇后となされた。即ち神功皇后である。当時九州の熊襲が叛いて帰順しなかったので、親征されたがはかばかしからず、不幸陣中で崩ぜられた。そこで皇后は武内宿禰と議し、熊襲よりも先ずその後押しを断たうとせられ、御懐胎の御身を以て、親ら兵船を進められた。間もなく筑紫に凱旋せられて、お生まれなされたのが誉田別命即ち応神天皇である。皇后は摂政として、天皇を輔け給うこと70年。内は複雑な内紛を処理して、国力の充実を図り、外は国際的主導権を握り、ここにはじめて我が国民の国家意識が自覚された。応神天皇の御代には百済王が裁縫師を奉り、弓月君は120県の民を率いて渡来し、博士王仁は論語と千字文を奉った。また阿知使主は17県の部族を率いて渡来し、更に呉の国に行って縫工女を求めて帰った。そこで、養蚕、機織、建築、造船、その他美術、工芸等の新しい技術をはじめ、文字や儒学まで、一時にどっと我が国に流れ込んで来た。こうしてもたらされた大陸の先進文化を摂取して、ここに日本文化の根底が築かれたのである。今から1100年ほど前、即ち清和天皇の御代この境内に大変香りの好い水が湧きでたので、その奇瑞に因んで、「御香宮」(ごこうぐう)の名を賜ったと伝える。円融天皇以後、度々社殿を造営せられ、後宇多天皇は弘安3年に元軍討平祈願の為種々の幣物を奉られた。後伏見天皇の御代にも社殿の御造営あり。伏見宮家の御先祖、伏見宮貞成親王は産土神として特に御崇敬遊ばされ、御祭礼には必ず猿楽(さるがく)や相撲を御覧になり、又度々御百度や御千度をなされたことが、御日記の「看聞御記」(かんもんぎょき)に詳しく誌されている。応仁の乱には、当社も兵火にあったので、その後は小さいお宮を建てておまつりしていた。天正18年7月、豊臣秀吉は小田原城の北条氏を討ち滅ぼして、国内統一がほぼできたので、更に海外にまで勢力を展ばさんと、翌8月11日、当社に願文と太刀(備前長光作、重用文化財)とを献じてその成功を祈った。やがて伏見城の建設に着手、文禄3年当社を城の艮(うしとら)にうつし、社領300石を献じた。秀吉の亡き後、徳川家康は慶長10年、またもとの所に社殿を造営し、秀吉同様300石を献じて明治維新に及んだ。慶応4年正月(9月8日明治改元)伏見鳥羽の戦いには、伏見奉行所に幕軍が拠り、当社は薩摩藩の屯所になったが、幸いに兵火をまぬがれた。古来安産の神として信仰があつく、明治以前は、御幸宮とも称して、「幸」を招く神・守護をする神として広く崇敬されていた。末社16社、大神宮、春日社、天満宮、新宮、熊野社、那智社、稲荷社、東照宮、住吉社、八坂社、恵比須社、厳島社、豊国社、若宮八幡宮。特殊神事としては神幸祭、旧暦9月9日、即ち重陽の節句に行われたもので、伏見9郷の総鎮守の祭礼であった故、古来伏見祭と称せられ、洛南の大祭として聞こえている。徳川2代将軍秀忠の息女千姫の奉納した御輿は日本一重い御輿と称せられ、今はかけないので昭和37年に、軽いのを2基、ついで昭和63年に1基を新調した。渡御の先駆をなす雄雌の獅子は、文政4年伏見奉行仙石大和守久功の寄進で、是れ又希に見る大きなものである。御輿は1日から拝殿に飾られ、10日の朝7時頃から氏子区内を渡御し、夜7時頃神社にかえる。このお祭りの特徴は、室町時代から伏見9郷がそれぞれ風流傘を競ったことで、昭和30年前後には百数十本に及び、実に壮観を極めたがその後急激に減少、しかし近年に至って復活の兆しがある。御弓始行事は、2月中卯月、鬼という字を左書きにした直径1丈余りの大的を拝殿の南面に立て、その年の神幸祭に、猿田彦命と天鈿女命として奉仕する本役2名が、烏帽子、狩衣姿でこれを射る。悪鬼を射ち払って氏子区内を平穏に、そして秋の祭礼に恙なく御奉仕出来るようお祈りするのである。茅ノ輪神事は7月31日深夜に執り行われ、淀川堤の茅萱を7月中旬に刈り取り、5、6日干して直径1丈ほどの輪に作る。それを本殿と拝殿との中間に懸け、神職が祓いを修して先ずくぐる。つづいて参拝者がくぐるや否や争ってその茅萱を抜き取る。その状は実にものすごいものである。各々家に持ち帰り、輪にして門口へ吊るしておく。備後風土記の蘇民将来の古事に因るもので、当社では古くから行われ、なかなか盛んな行事である。「母のためも1つくぐる茅ノ輪かな」一茶。なお茅の輪を訛って「ちえのわ」と称し、知恵を頂くといって頭に巻く風習がある。醸造初神事は12月中卯日末社松尾社の例祭で、氏子中の酒造家が今冬、仕込む酒のよい出来ばえを祈願する。本殿は慶長10年徳川家康造営(国指定重要文化財)五間社、流造、檜皮葺、軒廻りには極彩色の絵画、彫刻を施し、豪壮華麗、よく桃山時代の建築の特色を現している。拝殿は伝、伏見城車寄(京都府指定有形文化財)であり寛永2年、紀伊大納言頼宣(初代紀州候)が拝領して当社に寄進した。7間3面、入母屋造、本瓦葺き、正面大唐破風及び周囲の蟇股の彫刻は精巧を極む。漆塗りの蔀戸(しとみどや)舞良戸(まひらと)等の住宅風の要素と、構図の自由奔放な彫刻との調和の妙は、桃山様式の面目を躍如たらしめている。表門は伝、伏見城大手門(国指定重要文化財)であり、元和8年、水戸中納言頼房(水戸黄門の父)が拝領して当社に寄進した。3間1戸、薬医門、、本瓦葺き。雄大な木割雄渾な蟇股、どっしりと落ち着いた豪壮な構えは、さすがに伏見城の城門たる面影をのこしている。4面の蟇股には支那24孝の彫刻が施してある。鳥居は徳川頼宣が熊野石で造った鳥居が地震で倒壊したので、木鳥居に替えられた。その後修理の時にまったく模様替えして、大手筋に移し、その真木を御影石で根継ぎをし、5寸角の檜材でこれを包んだ。現在の丹塗の鳥居がそれである。柱の太さとその開き具合、笠木の反り及び貫との間隔等、その均整のとれた美しさ、額の文字は、黄檗山第2世木菴禅師の筆。この木鳥居を大手筋へ移転したあとへ紀州候7代宗将が建立したのが、表門内参道の石鳥居である。当社に奉納の石灯篭凡そ75基。その中、由緒、形状、石質等に記すべきは次の如きものである。正保2年、徳川頼宣奉納1基。宝永7年、伏見奉行建部内匠頭奉納1基。文化13年三上氏奉納1対。天保13年、伏見奉行内藤豊後守の武運長久を祈って氏子中より奉納一対。その他、明和9年、板倉佐渡守家臣岡田氏奉納の唐金灯篭も優美なものである。今から600年ほど前から、能楽の先行芸術たる猿楽が当社で盛んに行われていたことは「看聞御記」によって明らかである。殊に秀吉は能楽を愛好したので、当社を峠へ遷したときにも境内に能楽台を建てた。それを家康が現在の地に移したが、その後大破したので、宝永5年に取片付けた。文化8年ごろから新築を計画し、伏見奉行を通じて、しばしば京都所司代に請願したが終わりに許可されず、奉納の都度仮舞台を組み立てていた。明治11年和楽社を興し、9社殿の北3間を改造して能舞台にし、4月17日と10月11日とにに奉納された。昭和10年更に舞台の補修、鏡間、橋掛及び見所新築。昭和56年には能舞台の解体修理を行って面目を一新した。時に消長はあったとはいへ、能楽以前の猿楽時代からとにもかくにも当社で催能されてきたことは、能楽史上注目に価するものである。絵馬堂は桁行30尺、染間18尺、巨大な檜材で造る豪壮なたてものである。此処に懸る絵馬は百数十を数え、元禄、享保以前のものも少なくない。中でも猿曳きの絵馬は、その彫刻優秀にして種々の伝説を生み、左甚五郎の作とまで誤り伝えられている。また和算の大家西岡天極斎奉納の算額は、我が国算学史上特に貴重な資料として注目されている。茶道遠州流の祖伏見奉行小堀遠江守政一から6代目の和泉守政方が、安永6年伏見奉行に任ぜられた。最初は善政を施して伏見町民から悦ばれたが、やがて側近の奸臣に身を誤られ、乱行の日に甚しく重税、重罪を課して暴虚その極に達した。ここに町年寄文珠九助等同志7名敢然起って、幕府の要路に直訴せんことを画策した。一身一家を拠ち数年に亘る苦心惨憺の末、初志終に貫徹され、天明5年12月政方は罷免され、住民は漸く塗炭の苦しみから救われたが、同志のうち2人は事件の落着を見ずして江戸の客舎に病死し、他は全員京都町奉行で牢死した。前町民のために筆舌に尽くせない労苦を重ね、文字通り死をもってこれに当たった尊い義挙も、世の変遷と共に空しく朽ち果つべきを憂へ明治20年、百年祭を機に同憂の士相議り、その遺徳を顕彰し永く後世に伝へんものとこの記念碑を建設した。因に、「伏見義民碑」の題字は三条実美の書でその碑文は勝海舟の撰文である。御香水は(環境庁「名水百選」認定)であり、当社の名の起源となった井戸で「石井(いわい)の御香水」として伏見の7名水の1つとして有名であった。明治以降水が涸れていたが、昭和57年7月本殿東側に復元した。地下150メートルから汲み上げている。この水は霊水として、病気平癒のため、また茶道、書道の方々も多く汲みに来られている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




御香宮

御由緒
創建年は不詳。日本第一安産守護之大神として広く崇められている、神功皇后を主祭神として仲哀天皇応神天皇他六柱の神を祭る。 初めは、『御諸神社』と称したが、約1150年前の平安時代貞観四年(八六二)九月九日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、 清和天皇よりその奇端によって、『御香宮』の名を賜った。豊臣秀吉は天正18年(1590)、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、 やがて伏見築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請し社領三百石を献じた。その後、徳川家康は慶長10年(1605)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じた。 慶応4年(1868)正月、伏見鳥羽の戦には伏見奉行所に幕軍が據り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが幸いにして戦火は免れた。 10月の神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の祭礼とされ、古来『伏見祭』と称せられ今も洛南随一の大祭として聞こえている。
御香水
当社の名の由来となった清泉で「石井の御香水」として、伏見の七名水の一つで、徳川頼宣、頼房、義直の各公は、 この水を産湯として使われた。絵馬堂には御香水の霊験説話を画題にした『社頭申曳之図』が懸っている。明治以降、涸れていたのを昭和57年復元 、昭和60年1月、環境庁(現、環境省)より京の名水の代表として『名水百選』に認定された。
本殿
(国指定重要文化財)
慶長10年(1605)徳川家康の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立された。 (本殿墨書銘による)大型の五間社流造で屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、正面の頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)や蟇股(かえるまた)、 向拝(こうはい)の手挟(たばさみ)に彫刻を施し、全ての極彩色で飾っている。また背面の板面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵を描いている。 全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和60年5月18日重要文化財として指定された。 現社殿造営以降、江戸時代社殿修復に関しては、そのつど伏見奉行に出願し、それらの費用は、紀伊、尾張、水戸の徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財でもって行われた。 大修理時には、神主自ら江戸に下って寺社奉行に出願して徳川幕府直接の御寄進を仰いだ例も少なくなかった。
平成2年より着手された修理により約390年ぶりに極彩色が復元された。
拝殿
(京都府指定文化財)
寛永2年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進にかかる。桁行七間(けたゆき七げん)、 梁行三間(りょうゆき三げん)、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の割拝殿(わりはいでん)。正面軒唐破風(のきからはふ)は、 手の込んだ彫刻によって埋められている。特に五三桐の蟇股や大瓶束(たいへいづか)によって左右区切られている彫刻は、向かって右は『鯉の瀧のぼり』、 すなわち龍神伝説の光景を彫刻し、左はこれに応ずる如く、琴高仙人(きんこうせんにん)が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を写している。 この拝殿は伏見城御車寄(くるまよせ)の拝領と一部誤り伝えられる程の豪壮華麗な建物である。
平成9年6月に半解体修理が竣工し極彩色が復元された。
表門
(伏見城大手門)
(国指定重要文化財)
元和8年(1622)、 徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進した。三間一戸(三げん一と)、切妻造(きりもやづくり) 、本瓦葺、薬医門(やくいもん)、雄大な木割、雄渾な蟇股、どっしりと落ち着いた豪壮な構えは伏見城の大手門たる貫禄を示している。 特に注目すべきは、正面を飾る中国二十四孝を彫った蟇股で、 向かって右から、楊香(ようこう)、敦巨(かっきょ)、唐夫人、孟宗の物語の順にならんでいる 。楊香という名の娘が猛虎より父を救った。敦巨は母に孝行するために、子供を殺して埋めようとした所、 黄金の釜が出土、子供を殺さずに母に孝養を盡した。唐夫人の曽祖母は歯が無かったので、 自分の乳を飲ませて祖母は天寿を全うした。孟子は寒中に病弱の母が筍を食べたいというので、 雪の中を歩いていると彼も孝養に感じて寒中にも拘らず筍が出てきた。以上、中国二十四考の物語の蟇股である。 また、両妻の板蟇股も非常に立派で桃山時代の建築装飾としては、二十四考の彫刻と併せて正に時代の代表例とされている。
遠州ゆかりの石庭
今から350年ほど前、小堀遠州が伏見奉行に命ぜられた時、 奉行所内に作った庭園の石を戦後移して作ったものである。小堀遠江守政一が元和9年(1623)、伏見奉行に着任すると 、庁舎の新築を命ぜられた。寛永11年(1634)7月、上洛した三代将軍家光をここに迎えた時、立派な庭園に感心して褒美として5千石加増、 一躍大名に列した。伏見奉行所の庭園は遠州公にとって出世の糸口でもあった。明治時代以降、陸軍工兵隊、米軍キャンプ場と移り変わり、 昭和32年市営住宅地になったのを機に当社に移築した。庭園の手水鉢には、文明9年(1477)の銘があり在銘のものとしては非常に珍しいらしい。 また、後水尾上皇が命名された『ところがらの藤』も移植、その由来碑も建てている。この庭園は中根金作氏(中根造園研究所長)の作庭にかかる。

公式HP



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