古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。 玉依姫命が、黄船に乗って、淀川・賀茂川・貴船川をさかのぼり、当地に上陸し、水神を祭ったのが当社の起こりである。 玉依姫命が乗ってきた船は、小石に覆われ奥宮境内に御船型石として残っている。 貴船の神が天降ったという貴船山(699m、当社の西に聳える)は今禁足地となっている、神が降臨したという鏡岩がある。 樹木の生い茂った山林の神で地主神であったと思われる。 御社殿創建の年代不祥ながら、社記に凡そ1500年前とあり、第40代天武天皇 の白鳳6年に御社殿造替えが行わた記録がある。 平安朝時代より賀茂別雷神社の摂社とされたが、それを異として、紛擾訴訟を続け、明治維新に至って、ようやく独立した。 現時多くの神社に奉納されている絵馬は貴船神社から始まった 本宮の社殿前の石垣からこんこんとあふれ出ている御神水は、聖なる山・貴船山より湧き出ている |
貴布総本宮貴船神社略記 御鎮座 鴨川の上流、貴船鞍馬の山峡幽邃の地に鎮ります。神代の昔貴船山に御降臨、御社殿創建の年代不祥ながら、社記に凡そ1500年前とあり、第40代天武天皇の白鳳6年(凡そ1300余年前)御社殿造替えが行われている。 日本後記に、藤原伊勢人が東寺造営の任に当った時、霊夢に貴船大明神あらわれて、鞍馬寺建立の御託宣ありと記されている。 第70代後冷泉天皇永承元年7月水害、天喜3年4月(凡1000年前)現在地に奉遷し、元の処は奥宮として奉斎す。 御社格 第52代嵯峨天皇弘仁9年大社に宣せられる。延喜の制には名神大社に列し、四度の官幣に預り、二十二社(皇室が特別大切にされた神社)に列す。祈雨八十五座の一として、奉幣には別に祈雨に黒馬、祈晴に白馬を添えられた。 御神階 弘仁9年従五位下に叙せられ、霊験著しく漸次進めて、崇徳天皇保延6年には正一位に昇叙せられる。 貴船信仰 水の霊威は実に広大にして、計り知れない。万物水霊を蒙らぬはない。平安朝時代からの朝野の尊崇極めて厚く、日照り、長雨、国家有事の際には必ず勅使(天皇のお使い)を派遣せられ祈念が捧げられた。尊貴の崇敬は全国一般にも及び、殊に治水関係者、農家、醸造家、染織家、航海者、料理飲食業、製菓業、浴場業、その他水商売の人々は厚い畏敬の念を以て信仰を捧げている。当社より御分霊を戴いておまつりしている御分社は全国府県に御鎮座、約五百社を数える。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
貴船神社 貴船の地名の由来は、境内にある御神木・桂の木の姿に象徴されるように、大地全体から生命生気である「気」が龍の如く立ち昇るところ、気の生まれる嶺、あるいは根元であるということから、気生嶺、気生根〈キフネ〉よ呼ばれるようになったともいう。 御鎮座 京都市左京区鞍馬貴船町 社記に、「国家安穏、々民守護のため、太昔“丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻”に、天上より貴船山中腹、鏡岩に天降れりとあり、又、神式天皇の皇母玉依姫命は、雨風の国潤養土の徳を尊ぴ、その源を求めて、黄船に乗り浪花より淀川、鴨川を遡り、その川上貴船川の上流のこの地に至り、清水の湧き出づる、霊境吹井を認めて、水神を奉斎す」とある。 御社殿の伸創建を明記するものはないが、その年代は極めて古い。 天武天皇白鳳6年(約1300年前)には、神社殿御造替の事が見えている。『大鏡』、『水鏡』に「東寺長官藤原伊勢人は貴布禰大明神の御夢託によって、鞍馬寺建立す」とあり、既に平安期以前には洛北王城の地にかけて尊信が寄せられていた事がわかる。 後今泉天皇永承元年7月25日出水のため社殿が流損したので、天喜3年4月26日、現在地に奉遷、元の霊地は奥宮として奉斎し、今日に至る。 御神徳、奉幣、祈願 嵯峨天皇弘仁9年の条に、「7月・・・也」(日本紀略・日本後記)とあり、長雨が続いたために嵯峨天皇が勅使を遣わされて降雨を祈られた。これが貴船神社への勅使御差遣の文献上の初見で、以後はしばしば、日照の時には黒馬を、霖雨の時には白馬を献じて雨乞、雨止みを御祈願あそばされた。これが、後世、絵馬の発祥となる。 祈雨祈晴だけでなく、弘安9年亀山上皇が行幸、国事多難克服を御祈願になり、後奈良天皇は疫病流行のため除危を祈られた。このように朝廷の崇敬はことのほか篤く、近年の皇室の御参拝としては大正13年皇后陛下(貞明皇后)が、昭和52年浩宮殿下(皇太子殿下)、昭和57年秩父宮妃殿下、平成2年常陸宮・同妃両殿下、平成3年秋篠宮殿下が行啓になっている。 キフネは、万物のエネルギー〈気〉が生ずる根元「気生根」てあり、その御神気に触れるだけで元気がよみがえるといわれている。元気回復すれば運も開かれるということから、古来運気発祥の信仰が盛んで、いろいろな願い事で人々は参詣している。和泉式部は恋を祈り、平実重は蔵人昇任を祈願、大宮人は賀茂競馬の必勝を析念し、源義経は源家再興を願って百ケ日参籠、徳川家光は疱瘡平癒を祈願、全快御礼に春日局が代参している。 こうした信仰は全国の知る所となり、貴船信仰は広がり、本社の御分霊を奉斉する貴船神社は各都道府県に鎮祭されて、五百社を数える。 御社殿 本殿 流造檜皮葺 七坪一合三勺 御創建不詳、白鳳6年御造替、天喜3年現在地に奉遷 平安中期寛弘年間より江戸期まで、賀茂別雷神社の摂社とされていた。社記に「往昔式年造替あり」と記されているが、詳しい記録は不明。文久3年まで36回余の御造替、大正11年国費を以て大修理、昭和52年御屋根を葺替え、遷座祭を行なった。 境内には権殿、末社、表北門、龍船閣、祭器庫、神札授与所、斎館兼社務所、手水舎、社号標、一、二、三、四の鳥居などがある。 由緒書 |
貴船神社 水徳神高おかみ神を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、責布弥とも書かれたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた。 平安時代廷喜の制には、名神大社という最も高い格式に列し、日照りや長雨が続いたとき、また国家有事の際には必ず勅使が差し向けられ、祈念がこめられた。弘仁9年(818)以来歴朝の奉幣、祈願では、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬又は赤馬が献ぜられるのが例であった。平安時代末期には賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂杜とされたが、明治以後独立した。 かつて社殿は貴船川に沿って上がった所にある現在の奥宮の地にあったが、天喜3年(1055)、現在地に移転された。本殿、拝殿、権殿等から成り、本殿は文久3年(1863)及び平成17年(2005)に改修された。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船磐と呼ばれる船の形に積んだ石塁がある。和泉式部がお詣りし、不和となっていた夫と願いがかなって復縁した話はよく知られている。 京郁市 社頭掲示板 |
絵馬発祥の社 先人にならい絵馬を奉納して御祈願下さい。 古来、雨乞いの社として名高い当社には畏くも歴代天皇様より旱天には黒馬・霖雨には白馬または赤馬を、その都度献げて御祈願される例になっていました。 しかし、時には生馬に換えて「板立馬」を奉納したと、平安時代の文献である「類聚符宣抄」は伝えています。 この「板立馬」こそは今日の絵馬の原形と言われています。 当宮では、此の故事に倣らい、かって和泉式部が復縁を平実重が蔵人昇任を、大宮人が加茂競馬の必勝を、そして源義経が源氏再興を、それぞれ大神様に祈ったように、皆様方の心の願いを、一枚の絵馬に託して御祈願なさいますよう、お勧め致します。 社頭掲示板 |
由緒 御祭神は高おかみ神。水の供給を司る神。 創建年代は明らかでないが、第18代反正天皇の御世に奥宮の水の湧き出すところに社殿を建てたという御鎮座伝説がある古社。対岸鞍馬山の鞍馬寺は、平安初期の延暦15年(796)藤原伊勢人が貴船明神の夢のお告げで建立したと諸書に出ているのでその当時すでに貴船の神は大きな力を具えていたことがうかがえる。永承元年(1046)7月の水害で奥宮が被災、天喜3年(1055)4月この地に本社を移築した。 京都に都が開かれて当社は国の重要な神社となり、事ある毎に勅使(天皇のお遣い)が差し向けられた。特に当社には、日照りの時には黒馬を、長雨の時には白馬を献じて「雨乞い」「雨止み」の祈願がこめられた。「その数数百度に及ぶ」とある。平安時代の勅願社二十二社の一社で、延喜式名神大社、庶民の崇敬も篤く全国に二千社を崇える分社がある。 古くは「貴布禰」と記したが「黄船」「木船」「木生嶺」「気生根」などの表記も見られる。明治4年官幣中社となり、以後「貴船」の表記で統一された。 例祭6月1日 社頭掲示板 |