貴船神社
きふねじんじゃ


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【祭神】

『諸社根元記』『廿二社註式』等は水神罔象女命とする。
『黄船社秘書』は闇おかみ神・高おかみ神・玉依姫・神武天皇・鵜羽葺不合・国常立尊・岡象女神・素戔鳴尊・大己貴尊の九神とする。


【磐座】

本社の西の山、300m入つたところに鏡岩という平な岩がある。ここは貴布禰大明神降臨の処という。
その他、宇治の橋姫が丑の時参りのとき載いた金輪を下し灯明をつけたと伝える金輪掛石、和泉式部の歌で有名な蛍石、奥宮祭神の御料の船を石で囲うと伝える船形石等がある。


【神宮寺】

本社ヨリ廿五間南ニ在とする。貴布禰本社の本地仏は不動明王、奥宮の本地仏は地藏菩薩と考えられていた。


【和泉式部】

和泉式部が貴船神社に参拝したときの歌が後拾遺和歌集に収録されている。「男(夫の藤原保昌)に忘れられている頃、貴船神社に参拝し、御手洗川に蛍が飛んでいるのを見て詠んだ短歌」として、
  ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂たまかとぞみる
それに対して貴船明神が返したと伝えられる短歌
  おく山に たぎりて落つる 滝つ瀬の 玉ちるばかり ものな思ひそ



貴船神社

御社殿の御創建を明記するものは何もない。 ゆえに創建の年代は不詳ながら、天武天皇白鳳6年(約1300年前)にはすでに御社殿造替がおこなわれたとの社伝があることから、貴船神社の創建年代は極めて古い。
貴船神社の起源については、貴船大神が御鎮座することになった伝説が記されている社記のなかに見ることができる。
「国家安穏・万民守護のため、太古"丑の年の丑の月の丑の日"に、天上より貴船山中腹、鏡岩に天降れり」とあり、よって"丑の日"が縁日とされているゆえんである。
また別の伝説には.第18代反正天皇の御代(約1600年前)、初代神武天皇の皇母・玉依姫命が御出現になり、「吾は皇母玉依姫なり。恒に雨風を司り以て國を潤し土を養う。また黎民の諸願には福運を蒙らしむ。よって吾が船の止まる処に祠を造るぺし」と宣り給い、「雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて黄船に乗り、浪花の津(現在の大阪湾)から淀川、鴨川をさかのぼり、その源流である貴船川の上流のこの地(現在の奥宮の地)に至り、清水の湧き出つる霊境吹井を認め、一宇の祠を建てて水神を奉齋す」とあり、”黄船の宮"と崇められることになったと伝えられている。

公式HP



貴船神社

貴船神社 きふねじんじや
京都市左京区鞍馬貴船町。旧官幣中社。
(現、別表神社)。祭神は高おかみ神、また闇おかみ神とも罔象女神ともいわれている。古くは多く「貴布禰」と書かれ「木船」とも表記する。本社は京都を貫流する鴨川の水源に位置し、水を司る神として古来より崇敬篤く、全国約260(300とも)の貴船神社の総本社として広く知られている。創祀年代は不詳であるが天武天皇の白鳳6年(677)に社殿造替のことがあったとされ、神社の隆昌は平安遣都(794)以降である。
「日本紀略』弘仁9年(818)5月の条に「山城国愛宕郡貴布禰神為大社」とあり、従五位下に叙されてから、漸次累進して崇徳天皇の保延6年(1146)には正一位に昇叙。特に祈雨・止雨に霊験あり、嵯峨天皇の弘仁9年「7月丙申遣使山城国貴布禰神社大和国室生山上竜穴等処祈雨也」(『日本紀』)とあって、早くから室生や丹生川上(奈良県)とともに尊崇された。『延喜式』には名神大。祈年・月次。新嘗の各祭に官幣が奉られ、祈雨神八五座の一座として神威を現わして、平安時代に同定したいわゆる二十二社奉幣の下八社のうちに加えられている。本社はまた永く、賀茂別雷神社の摂社と理解されていた。(『二一社記』北畠親房、『園太暦』正和4年5月の条、洞院公賢)その祭祀権が賀茂側に移り、賀茂の摂社となった一つの原因として、永承元年(1046)7月の出水による社殿流失(『百錬抄』)と天喜3年(1055)の再建が契機になっていようとする説があり、近世これにかかわる訴訟が起こされている。また社前の貴船川上流には「奥宮」があり、天喜の流失前の古殿地といわれ、境内に奇岩「岩形岩」がある。同社は古来より、文芸にも多く登場し、和泉式部の説話や能の鉄輸などが名高い。
例祭6月1日。他に雨乞祭(3月9日)、水まつり(7月7日)、御火焚祭(11月7日)などが斎行されている。

神社辞典



貴布禰神社 名神大月次新嘗

貴布禰は假字也○祭神罔象女命(廿二社注式)○貴布禰村に在す、(山城志)○式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、山城國貴布禰神一座、」祈雨祭神八十五座、(並大)云々、貴布禰社一座、〇江家次第、祈年穀奉幣、貴布禰、(令神紙進差文)廿二社注式云、下八社、貴布禰、(幣数一本)○拾芥抄云、三十番神、貴布禰、(9日)〇廿一社記云、賀茂摂社也、○日本紀神代巻上、一書曰、伊弉册尊為軻遇突智所焦而終矣、其且終之間、臥生水神罔象女、」又曰、小便化為、名曰罔象女、
廿二社注式云、水神罔象女神也、
大社
日本紀略、弘仁9年5月辛卯、山城國愛宕郡貴布禰神為大社、
神位
日本紀略、弘仁9年6月癸酉、山城國愛宕郡貴布禰神奉授從五位下、続日本後紀、承和10年12月癸亥、奉授從五位下貴布禰神正五位下、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国正五位上貴布禰神從四位下、同15年5月26日己丑、授山城国從四位下貴布禰神正四位下、諸神記云、長保5年3月26日、正三位、日本紀略、寛仁元年12月1日乙丑、詔授貴布禰神正二位、依行幸之賞也、(野府記の文川合社の下に見ゆ)諸神記云、承暦5年2月10日、從一泣、保延7年7月10日、正一位、
官幣
続日本後紀、承和5年9月癸亥、奉幣馬於貴布禰社、以祈止風雨也、
社地
百錬抄、永承元年7月25日、諸卿定申貴布禰社為水流損、可被改立他所、戴否事、(松尾社月読社有例)天喜3年4月26日、貴布禰社為水流損、移立他所、
雑事
朝野群載云、貴布禰社請被下宣旨於主殿寮停止一鳥居内伐木并放火状、右神山之内被禁樵蘇事、戴在絡條、嚴制稠畳、而当社四至内山與主殿寮山雖為接境之地、己有所限之疆、爰近代以来、寄事寮役、濫滅神山、神事違例莫不因斯、望請天裁被下宜旨、停止樵蘇之輩、将仰神威之厳、仍勒事状、■請処分、年月日社司連署、

神社覈録



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