賀茂御祖神社
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   【延喜式神名帳】賀茂御祖神社二座(並名神大 月次/相甞/新甞) 山城国 愛宕郡鎮座

   【現社名】賀茂御祖神社
   【住所】京都市左京区下鴨泉川町59
       北緯35度2分20秒,東経135度46分21秒
   【祭神】賀茂建角身命 玉依媛命
   【例祭】5月15日 賀茂祭
   【社格】旧官幣大社 山城國一宮
   【由緒】崇神7年には社の瑞垣が造営
       垂仁27年8月には御神宝が奉納
       欽明天皇5年(544) 葵祭を始められる
       白鳳6年(677)官営神社となる
       延暦3年(784)長岡京遷都により告文
       延暦4年(785)封戸十戸
       延暦12年(793)平安遷都により告文
       大同2年(807)5月正一位
       弘仁元年(810)賀茂斎院の制
       承和11年(844)当神社の四至制定
       貞観7年(865)神田五反奉納
       元慶4年(880)平安京大極殿完成により告文
       天禄2年(971)関白賀茂詣定例の制
       長元9年(1031)式年遷宮の制
       永承2年(1047)4月21日火災焼失
       承保3年(1076)行幸式日の制
       応徳3年(1084)院・上皇・法皇御幸の制
       元永2年(1119)11月1日火災焼失
       治承3年(1179)参籠御幸の制
       寛永5年(1628)造営
       文久3年(1862)造替

   【関係氏族】古来賀茂縣主一族により奉祀されてきた。
   【鎮座地】鎭座地は古来より変つていない

   【祭祀】古代より連綿と継承されており、多くの神事が古式を遺している。
   【公式HP】 賀茂御祖神社
    境内社配置図

式内では2座。書紀、神武2年、賀茂建角身命を奉斎していた一系統「葛野主殿県主部」との氏族の名が見える。崇神7年には社の瑞垣が造営され(鴨社造営記)、垂仁27年8月には御神宝が奉られている。欽明5年(544)4月から賀茂祭(葵祭)が行われている。(本朝月令・年中行事抄)


賀茂御祖神社御神徳

御祭神は、日本のれい明期において、早くから京都地方を開拓し農耕殖産の道を教え、更に正邪を糺して裁判の基を開かれた。かの神武天皇の御東遷に際しては、金鵄・八咫烏としてその霊徳を現され、建国創業をたすけ、民生の安定に貢献されたことは古典や伝承の示すところである。
また玉依媛命は、賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)の祭神「別雷神」の御母神であり、婦道に御功績が多かった。かくて当神社に対する信仰は往古から甚だ根強いものがあり、特に王朝時代に隆盛を極め今日に至っている。
千数百年の伝統を誇る葵祭は、勅祭として、今もなお昔ながらに継続斎行されている。殖産興業、五穀豊穣、馬事安全、縁結び、安産、育児、方除け、印鑑守護等、多方面にわたる御神徳は、今日の賀茂信仰の根底をなしている。また観光部面においても、王朝の昔を偲ぶ十二単衣の着付と王朝女人の雅楽舞、舞楽等があり、毎日、京都市観光バスのK・Nコースによって好評を博している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




御祭神

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)西殿(国宝)
玉依媛命(たまよりひめのみこと)東殿(国宝)
創祀
創祀の年代を特定することは出来ないが、『日本書紀』神武天皇2年(BC58)2月の条に、当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系流「葛野主殿県主部」との氏族の名がみえる。この氏族は、賀茂建角身命の先の代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。
また、『賀茂神宮賀茂氏系図』には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より11代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が鴨建角身命社を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされている。
崇神天皇七年(BC90)には、社の瑞離が造営(『鴨社造営記』)され、垂仁天皇27年(BC29)8月には、御神宝が奉まつられている。(『同書』)また、緩靖天皇(BC581)の御世より御生神事が行われた(『旧記』)との伝承があり、欽明天皇5年(536)4月から賀茂祭(葵祭)(『本朝月令』『年中行事抄』)が行われていることからみて、創祀は西暦起元をはるかに遡るものとみられている。
斎院の制
弘仁元年(810)、嵯峨天皇の皇女有智子内親王が賀茂の斎王と定められ(『一代要記』)、賀茂斎院の制が設けられた。(『賀茂斎院記』)
常の御所は、船岡山の東方、紫野に造営され、葵祭など年中の重要祭儀の期間には、当神社御本宮西方の斎院御所を御在所とされた。
斎王は、後鳥羽天皇の皇女、礼子内親王、建暦2年(1212)9月4日、御退位まで35代、約400年間奉仕された。(『賀茂斎院記』)
斎王の社参は、『源氏物語』や『枕草子』などに華やかで優雅な行粧が伝えられている。単に、祭と言えば、この葵祭をさすほど朝廷の盛儀であった。
しかし、葵祭は、戦乱で洛中を練る行粧が中絶するなど変遷がみられるが、明治17年(1884)、官祭賀茂祭として、『路頭の儀』、『社頭の儀』とも古儀により行われるようになった。昭和31年より斎王代の女人列が再興され一段と華やかさをました。
切芝神事
5月12日(旧暦では、4月中午日)正午、御蔭の地で御生された御神霊は、途次の鴨社総社で路次祭(現在は摂社賀茂波爾神社のみ。明治初年神社制度改革までは上下粟田郷のすべての総社)を行って糺の森の神域に着御せられ、神馬に遷御になり、切芝(元禄7年(1694)再興後は現在の表参道、当時は「東の馬場」と呼ばれていた。永正14年(1517)以前は、「古馬場」において行われた。)に入御せられる。
入御された切芝では、御神霊に鴨社の創祀と伝承を詠楽によって奏し、風俗舞に表わし物語ると言う古代祭祀である。

由緒書




山城の国一の宮

賀茂御祖神社(下鴨神社)
東の本殿に玉依媛命、西の本殿に賀茂建角身命がまっられています。古くから鴨さんとか、下鴨神社とか親しく呼ばれていますが、正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじや)といい、二千年の昔からまつられ、京のみやことともに栄えて山城の国の一の宮、京都の総鎮護のお杜として広く信仰されてきました。また、皇室の尊崇も殊の外厚く、伊勢の神宮に次ぐ大杜として歴代天皇の行幸百数十度に及び、斎王の制度や21年目ごとの式年遷宮が行われてきました。
境内は史跡で約十二万平方メートルの糺の森にかこまれ、神社建築の代表的な流造りの2棟の本殿(国宝)と55棟の重文の社殿のたたずまいは、源氏物語をはじめ多くの物語、詩歌に語りつがれております。
春は緑、夏は納涼、秋は紅葉、冬は樹雪と四季折々の林泉の美と幽すいは、平安の大宮人から現代に至るまで心のやすらぎの場として広く親しまれ、京の都と共に千二百年の伝統をはぐくみ、自然の環境と王朝の夢がすみずみにまでただよっています。

由緒書




史跡 賀茂御祖神社境内

賀茂御祖神社(通称 下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命、玉依媛命の神話伝承が、そして「続日本紀」に賀茂祭の事、さらに「社記」には崇神天皇時代の記録などが記されているように、古くからの大社であった。また、玉依媛命の御子神は、賀茂別雷神社(通称 上賀茂神社)に祀られている。
境内の糺の森は鴨川と高野川の三角州に山背盆地の植生を残す貴重な森林でその美しさは古くから物語や詩歌にうたわれてきた。
社殿の造営は、「社記」に天武天皇6年(677)のこととされ、長元9年(1036)には、21年ごとの式年遷宮が定められた。現在の社殿は、江戸時代の造替えで、両本殿が国宝、他の社殿53棟は重要文化財である。
平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され、全国に60以上の庄園を持ち、山城国一の宮、全国賀茂神社1300社の総本社として広く崇敬されてきた。
弘仁元年(810)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として35代約400年間賀茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の西北に、常の御所は紫野大宮に設けられていた。
また、桓武天皇が延暦13年(794)平安遷都祈願の行幸をされて以来、歴代天皇、上皇、関白などの賀茂詣でも盛んであった。
さらに、毎年5月15日に賀茂祭(葵祭)が行われ、この祭は「源氏物語」をはじめ王朝の文学、詩歌にその華やかな行列の様子が描かれ、単に祭といえばこの葵祭を指すほどの盛儀で、その起源は、欽明天皇5年(545)に溯る。また、御蔭祭、騎射(流鏑馬)、蹴鞠、歌舞など千数百年伝承されている神事も多い。
このたびこのような賀茂神社の歴史的意義を重視し、境内全域を国の史跡に指定して保存することとなった。
昭和61年3月吉日
文部省
賀茂御祖神社

社頭掲示板




賀茂御祖神社由緒記

御祭神
東御本殿 玉依媛命
西御本殿 賀茂建角身命
御神徳 
賀茂建角身命を「日本書記」「古事記」では、金鳶八咫烏として表し農耕をひろめ民生の安定に努められた御功績を伝えているところから世界平和・五穀豊穣・殖産興業・病難方厄除けなど他方面に御神徳を顕しておられる。
御子神であられる玉依媛命は、「風土記」山城国逸文に婦道の守護神・縁結び・安産・育児さらに水を司る神として御神威を伝えている。
創祀
日本書記 神武天皇2年(BC658ごろ)条に当神社の御祭神賀茂建角身命を奉祭していたことが記されている。また当神社の最古の祭りである御生神事(現在の御蔭祭)が綏靖天皇の御代(BC581ごろ)に始められたこと、崇神天皇7年(BC90ごろ)瑞籬の造替、垂仁天皇7年(BC29ごろ)御神宝が奏られたこと、成務天皇のころ(131ごろ)神官に鴨県主の姓を賜るなどの所伝によって二千年以前に創始されたとされている。
社名
正式名称の賀茂御祖神社の「かも」は、古代の国名であり、文字も「鴨」のほか様々に用いられていたが大宝年間のころ(700ごろ)から「賀茂」となった。また地勢的にみて鴨川の下流にまつられているところから下鴨神社と通称で親しく呼ばれるようになった。
社殿及び境内
全域が世界文化遺産に登録されている。
東西両本殿二棟は国宝。幣殿、出雲井於神社等五十三棟が重要文化財のほか主要社殿十九棟。境内糺の森約十二万平方メートルは国指定の史跡となっている。
主な祭事
5月15日 葵祭、御蔭祭、流鏑馬神事、土用のうしの日 御手洗祭、立秋の前夜 夏越の神事、中秋 名月管弦祭、正月 歳旦祭、けまりはじめ、節分祭
名所旧跡
賀茂斎院御所旧跡 鴨社神宮寺旧跡 御手洗川 奈良の小川 瀬見の小川 泉川 連理の賢木 何でも比良木 切芝等
主な歴史
欽明天皇5年(544) 葵祭を始められる
白鳳6年  (677) 官営神社となる
延暦3年  (784) 長岡京遷都により告文
延暦12年 (793) 平安遷都により告文
弘仁元年  (810) 賀茂斎院の制
承和11年 (844) 当神社の四至制定
元慶4年  (880) 平安京大極殿完成により告文
天禄2年  (971) 関白賀茂詣定例の制
長元9年 (1031) 式年遷宮の制
承保3年 (1076)  行幸式日の制
応徳3年 (1084) 院・上皇・法皇御幸の制
治承3年 (1179) 参籠御幸の制、等々

社頭掲示板




賀茂御祖神社

当神社がまつられたのは、崇神天皇の七年(BC九十)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。先年糺の森周辺の発掘調査で弥生時代の住居跡や土器がたくさん発掘され、それを裏付けています。また社伝や歴史書に、お祭、社殿、ご神宝等の奉納などが記録されています。『続日本紀』の文武天皇2年(698)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記事があります。このことから、奈良時代より前から当神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。 
平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、別項に記します式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことがしられます。そして『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場いたしますように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。 平安時代末期になりますと全国に六十余箇所もの荘園、御廚が寄進され神社をささえました。 鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も連絡が次第に絶えて行きますが、代わって国民の信仰が神社をささえていくようになりました。神殿守(殿司)とよばれる人々が全国をまわってご神徳を説いていくのもこのころです。当神社を舞台とする、数多くの能(謡曲)などに、そのころの様子がうかがわれます。
また国の重要な出来事には、かならずご祈願が行われました。 江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営のため幕府より領地が寄せられました。 明治初年、全国の神社の代表として、官幣大社の首位におかれ、今日まで国と国民のための祈願を日々おこなっています。
【創祀】
創祀の年代を特定することは出来ないが、『日本書紀』神武天皇2年(BC658)2月の条に、当神社御祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系流「葛野主殿県主部」との氏族の名がみえる。 この氏族は、賀茂建角身命の先の代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。 
また、『賀茂神宮賀茂氏系図』には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より11代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が鴨建角身命社を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされている。 崇神天皇7年(BC90)には、社の瑞垣が造営(『鴨社造営記』)され、垂仁天皇27年(BC2)8月には、御神宝が奉まつられている。(『同書』)また、緩靖天皇(BC580)の御世より御生神事が行われた(『旧記』)との伝承があり、欽明天皇5年(544)4月から賀茂祭(葵祭)(『本朝月令』『年中行事抄』)が行われていることからみて、創祀は西暦紀元をはるかに遡るものとみられている。

公式HP



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