賀茂御祖神社
かもみおやじんじゃ


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【由緒】

御祖神である玉依日売等を祭る神社として、山城国風土記には三身社(三井社)はみえるが賀茂御祖神社のことがみえないので、風土記の撰進された和銅年間にはまだ鎮祭されていなかつたと考えられている。
その後天平神護元年9月7日に「封戸廿戸(山城十戸、丹波十戸)」とみえているので、天平年間にはすでに鎮祭されていた。


【仏教との習合】

嵯峨天皇の勅願によると伝える神宮寺(本尊十一面観音・不動尊)が河合神社の北にあった。
鎌倉時代の境内古図(賀茂御租神社所藏、但し模写)にも神宮寺・経所・経藏等が書かれている。
保延4年(1138)2月23日條には「鴨社神館并神宮寺社頭西塔焼亡、件塔、待賢門院御願也」とみえ、東西両御塔もあつたことが知られる。


【鎮座地】

往古は高野川がより東を流れ、より南で賀茂川と合流して居り、賀茂御祖神社は今より南にあつたが、洪水の都度河床が次第に西に移動したため社殿も漸次移動し現在の処ヘ遷つたとする説がある。
平安後期にはすでに現在の場所に鎮祭されていた。


【祭神】

二座であり、東殿は玉依媛命(多々須玉依日売命・玉依姫)で、西殿は賀茂建角身命であるとする。東殿の玉依姫については異論がないが、西殿の賀茂建角身命については異説がみられる。
大山咋ノ神『山城名勝志』『二十二社次第』『神社覈録』


【糺の森】

神社は3万6千坪の広さをもつ「糺(ただす)の森」の北側に位置しており、参道はこの森の中を縦断している(左の写真)。「糺の森」は古代の山城国の名残をとどめている自然環境とされ、国史跡に指定されている。
 森の中、参道に平行して西側に馬場が設けられており、ここで毎年5月3日には「流鏑馬(やぶさめ)神事・平騎射」が行われる。



賀茂御祖神社

賀茂御祖神社 かもみおやじんじや 京都市左京区下鴨泉川町。旧官幣大社(現、別表神社)。 祭神は東本殿に玉依姫命、西本殿に建角身命の二座。社伝によれば神武天皇の代に、本社の重儀たる御蔭祭の奉仕される摂社御蔭神社の地(御蔭山)に降臨せられたとする。その後、天武天皇の6年(677)2月に下鴨の現地に社殿が造営されたとするが、本社は天平頃に賀茂神社(上賀茂)から分立したとする説がある。社名が示す通り上賀茂に鎮座の別雷神の母神、外祖父神を祀り、子孫の賀茂一族が社家として他氏を混じえず明治の新制度まで累代奉仕した。
奈良朝以前より神威高く、欽明天良の代に山城(背)国をして祭を行わしめたといい、聖武天皇神亀3年(726)に初めて奉幣があり、孝謙天皇天平勝宝2年(750)に神領一町歩が充てられた。天応元年(781)には禰宜・祝に把笏が許され、平安遷都に当たり奉告のことがあって、延暦13年(794)に正二位。桓武天皇の親拝があり、以来皇室の行幸参拝も多い。平城天皇大同元年(806)4月中酉日をもって勅祭とし、翌年正一位に昇叙。また嵯峨天皇弘仁元年(810)皇女有智内親王を伊勢神宮に准じて斎王にト定して斎院のことが始まったが、後鳥羽天皇皇女礼子内親王まで35代をもって廃絶した。斎王については『延喜式』に詳しい規定がある。また『延喜式』によれば、名神大社、月次・相嘗・新嘗・名神祭のほか祈雨止雨の祈願奉幣にあずかり、二二社の上七社のうちに位し、山城国一宮として朝野の崇敬が篤く20年に一度の式年造替が例であった。全国に散在の社領(荘園)は鎌倉幕府が安堵(25所)、大閤検地による荘園制の崩壊にあたり豊臣秀吉は五四〇余石の朱印を奉った(上賀茂は二一〇〇余石)が、徳川幕府もこれを踏襲した。祭祀をつかさどったのは賀茂一族で他姓を混じえず、鴨姓を名乗った泉亭・梨木・鴨脚・滋岡諸家が累代奉仕。正禰宜・正祝・権禰宜・権祝・新権禰宜・新権祝職など22職の他に氏人らが奉仕した。
摂末杜は河合・出雲井於・三井・賀茂波爾(以上式内社)・御蔭の各神社など29社をかぞえる。神宮寺の勢力は微弱であった。
例大祭は、もと4月の中の酉日(旧暦)をあてたが、明治17年(1884)以後は5月15日になった。神託によるという葵蔓を神具。奉仕者につけることから「葵祭」と呼びならわし、古く「祭り」といえばこの祭をさし、文武天皇の代には「衆を会し騎射する事を禁ず」(『続日本紀』)るほど盛大で、大同元年(806)以降は勅使参向のもと一大盛儀を眼前させたが、応仁元年(1467)より東山天皇元禄7年(1694)まで227年間中絶。明治5年(1872)旧儀による祭を廃し、同17年再興された。また5月12日に御蔭祭があり、御蔭山に降臨の神を招ぎ迎える古儀を伝えるほか、御手洗祭(土用丑非)、夏越神事(立秋前夜)などがある。東西本殿(国宝)、幣殿拝殿ほか多数棟(重文)、糺の森(史跡)など文化財も多い。

神社辞典



賀茂御祖神社二座 並名神大月次相嘗新嘗

賀茂は前に同じ、』御祖は美於夜と訓べし、○祭神玉依姫、大山咋神、(頭注云、一社者大己貴子大山咋神、一社者玉依日女也、」鴨長明が四季物語云、下鴨と申奉るも、大山咋御神にて坐々て云々、松尾日吉など皆々同じ御神すがたなるべし、〇一宮記云、又曰糺宮大已貴命、この糺宮といふは、多々須玉依姫の御名よりいへるなるべし、」一説に、大已貴命又は神武天皇といふ、今従はず、さはいへ大己貴命と大山咋神とは同神直也といふ説あれば、強に破りがたし、こは近江国滋賀郡日吉神社の條に委しく云り、)○下鴨村に在す(山城祀)〇式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、鴨御祖二座、(坐山城国)同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、山城國賀茂御祖神社二座、』祈雨祭、神八十五座、(並大)賀茂御祖社二座、○当國、一宮也、(一宮記云、号下社、大山咋父、故号御祖、)○江家次第、祈年穀奉幣、賀茂上下(参議一人、次官五位一人、」)廿二社注式云、上七社、賀茂、(幣数二本)
類社
別雷神杜の條見合すべし、
神位
続日本紀、延暦3年11月丁巳、遣近衛中将正四位上紀朝臣船守、叙賀茂下上二社從二位、以遷都也、(こは長岡宮に遷る時也)日本紀略、延暦13年10月丁卯、鴨神加階、以遷都也、(こは平安京に遷る時也)大同2年5月戊子、賀茂御組神奉授正一位、
修理
続日本紀、延暦3年11月乙丑、遣使修理賀茂下上二社
官幣
祭祀
臨時祭
行幸
関白賀茂詣
前件官幣以下別雷神社の條見合すべし
齋院
別雷神社の條見合すべし
社職、把笏
続日本紀、天応元年4月戊申、令賀茂神二社禰宜祝等始把笏、
焼亡
帝王編年記云、永承2年4月23日、今朝件御祖社幣殿有火、一間余焼亡、元永2年11月1日、鴨御祖社宝殿巳下焼亡、失火
雑事
三代実録、貞観8年9月22日甲子、勅禁葬斂山城國愛宕郡神樂岡辺側之地、以與賀茂御祖神社隣近也、
式三、(臨時祭)凡神社四至之内、不得伐樹木及埋穢死人、」凡鴨御祖社南辺者、雖任四至之外、濫僧屠者等不得居住、
連胤云、別雷社と共に載る記文は更にのせず、彼社の條見合すべし、

神社覈録



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