御霊神社
ごりょうじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン

















   【延喜式神名帳】出雲井於神社(大 月次/相嘗/新嘗) 山城国 愛宕郡鎮座
   【延喜式神名帳】出雲高野神社 山城国 愛宕郡鎮座

   【現社名】御霊神社
   【住所】京都市上京区上御霊竪町495
       北緯35度2分11秒,東経135度45分40秒
   【祭神】崇道天皇 他戸親王 井上大皇后 火雷神 藤原吉子 文屋宮田麿 橘逸勢 吉備大臣
        (合祀)小倉實起 小倉公連 典侍局 小倉季伴 菅原和子
       『京都坊目誌』は、崇道天皇・伊豫親王・藤原吉子・橘逸勢・文室宮田麻呂・吉備眞吉
                藤原広嗣・菅原道眞(社説に火雷神)の八座とする。

   【例祭】5月18日 例祭
   【社格】旧府社
   【由緒】貞観5年(863)5月20日平安京の神泉苑で御霊会が催された
       延暦13年(794)崇道天皇の神霊を現在の社地に祀
       至徳元年(1384)正一位
       享保18年(1733)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】吉田東伍(『大日本地名辞書』)はこの社が往古の出雲井於神社であつただろうとする

   【祭祀】出雲井於神社及び出雲高野神社との継続性は不詳
   【公式HP】 御霊神社

平安遷都の折りに非業の死をとげた早良親王(さわら)の怨霊を鎮めるために桓武天皇の勅願により御霊を祀る社とされた。のちに光仁天皇殺害の容疑で投獄された井上内親王、謀反を企てた首謀者として捕らえられ伊豆に流された橘逸勢(はやなり)らいずれも無念の死を遂げた8人の神霊を合祀し、祭神八所御霊とされた。
八所御霊とは、
崇道天皇:早良親王、光仁天皇の御子、桓武天皇の同母弟
井上大皇后:光仁天皇の后
他戸親王:光仁天皇の子
藤原大夫神:藤原広嗣
橘大夫:橘逸勢
文大夫:文屋宮田麿
火雷神:菅原道真
吉備大臣:吉備聖霊
とされる。
境内に歌碑が多い。桓武天皇が平安遷都のとき8柱の神霊を祀った。社頭の説明に式社の記載無し。
5月18日(新暦)に行われている。御霊祭は京都(洛中)で最も古い祭りと言われる。
志賀剛は当社を式内出雲高野神社に比定している。


御霊神社由緒略記

祭神
本殿八座
 崇道天皇   光仁天皇第二皇子早良親王
 井上大皇后 聖武天皇第一皇女 光仁天皇ノ皇后
 他戸親王  光仁天皇第四皇子
 藤原大夫人 藤原告子命
 橋大夫   橋逸勢令
 文大夫   文屋宮田麿命
 火雷神   以上六所ノ荒魂
 吉備大臣  吉備真備命
相殿五座
 三社明神 四座
 和光明神 一座
右相殿御座は宮中に側縁故深く明治十四年十月十九日宮内省の命に依り奉祀
境内神社
神明神社、稲荷神社、厳島神社、花御所八幡宮、大舞神社、天満宮社、多度神社、貴船神社、粟島神社、白髪神社、長官三十社
由緒沿革
本殿八座の御鎮座年月は詳ならざるも社記によれば、桓武天皇の御宇延暦十三年五月崇道天皇の神霊を現今の在地に祀り給ひしを始めとす。其後仁明天皇、清和天皇両朝に至りて井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘火夫、文大夫の神霊を合祀せられ貞観5年5月20日神泉苑に六座の神座を設け悪疫退散の御霊会を勅修あらせられたるは史上明らかにして、当社御祭神を勅祭し給ひし始めなり。
後更に以上六所の荒魂、火雷神と吉備聖霊とを併祭されるに至り、俗に社号八所御霊又は八所御霊大明神と称へ奉り国家守護。皇居御産土神、都民擁護の崇社として斯に長久に鎮座し給へるなり。

由緒書

御霊神社

本殿八座の御鎮座年月は詳ならざるも社記によれば、桓武天皇の御宇延暦13年5月崇道天皇の神霊を現今の社地に祀り給ひしを始めとす。其後仁明天皇、清和天皇両朝に至りて井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫の神霊を合祀せられ貞観5年5月廿日神泉苑に六座の神座を設け悪疫退散の御霊会を勅修あらせられたるは史上明らかにして、当社御祭神を勅祭し給ひし始めなり。後更に以上六所の荒魂、火雷神と吉備聖霊とを併祭されるに至り、俗に社号八所御霊又は八所御霊大明神と称へ奉り国家守護。皇居御産土神、都民擁護の崇社として斯に長久に鎮座し給へるなり。
皇室の御崇敬
皇室の御崇敬 桓武天皇、仁明天皇の御勧請に依り奉祀せられし皇居御産土神なるを以て皇室の御崇敬特に篤く。殊に霊元天皇に於かせられては享保8年9月。同14年2月の再度行幸御参詣あらせられ、暦朝御即位大嘗祭の大儀を初めとして天下泰平御祈祷及び当社遷座祭には勅使、院使の御差遣あり。又皇子皇女御降誕の節、御胞衣納めの儀、或は御誕生日等禁中大小の御事ある時には必ず御使を御差遣幣帛料を奉り給ひ、維新後には明治10年2月、明治天皇京都御駐輦中勅使を参向せしめられ同廿五年には皇后陛下御代拝として女官を御差遣同廿6年6月常宮、周宮両内親王殿下御同列御参拝あらせられ、其他皇族の御参拝もしばしばあり、大正、昭和に至りては昭和天皇を始め秩父宮殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下各御成年式の際幣帛を献じ給ひ、或は又昭和9年9月廿一日の颱風被害に対しては宮内省より金壱封の復旧費御下賜あり、且皇太后宮職並びに各宮家(秩父宮、高松宮、久邇宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮)より風害復旧費御寄附あらせられ、近年に於ては昭和27年12月皇太子殿下(現今上陛下)より御成年式並に立太子札御奉告の幣帛を献ぜられ、又昭和43年1月不慮の災禍に因る御本殿の再建復興に際しては特に優渥なる思召を以て御内帑金を御下賜あらせられ、常陸宮、秩父宮、高松宮、三笠宮の四宮家よりも同様、復興の資として金壱封を御寄進あらせられ、又平成14年11月14日には皇太子徳仁親王殿下当社に行啓あり、後陽成天皇御寄進の御牛車並に所蔵古文書を視察、調査された。
皇室の御崇敬 以上は皇室の御崇敬事例であるが武門の尊崇も深く室町幕府、織田、豊臣、徳川将軍職の寄進も多く又御神徳を敬仰する一般の崇敬も所謂御霊信仰として全国にあまねき京都府下に於ては分祀三十余社に及び神祇史上特筆さる。
平安遷都にあたり延暦13年(794)桓武天皇さまが平安京の守り神として崇道天皇(早良親王)の御神霊をおまつりされたのが当神社のおこりです。当時天変地異や疫病の流行があいつぎ、それは非運の中に亡くなられた高貴の人々のたたりであるとされ、その人々の神霊をていちょうにおまつりすることによって、わざわいをなくそうという御霊信仰が生まれました。そしてそのおまつりを御霊会といい、京都の夏祭りの多くは御霊会ですが、当神社の祭礼はその発祥であります。以後井上内親王、他戸親王を始めとする十二柱の神霊がまつられ現在に至っていますが幾多の戦乱を経ながらも京都の市中の人々はもとより皇室又時時の施政者からも「産土神」「上御霊さん」と親しまれ敬われてきました。又、現在は上京区・北区にわたる一万三千戸の氏神様としても崇敬されています。

公式HP



詳細ボタン


山城国INDEXへ        TOPページへ