御霊神社
ごりょうじんじゃ


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【府社 御霊神社】

本社所在地は上出雲又は小山とら称す、社記及出雲寺記を按するに、延暦13年5月の勧請にて、崇道天皇及び井上内親王の、霊を祀り、御霊社と称す、後伊豫親王及び大夫人藤原吉子の霊廟を建て、下御霊と称するを以て、此祠は上と称す、後又橘逸勢、文屋宮田麿を合祀し、上下両社供に六座となる、三代實録貞観5年、神泉苑に六座の神位を設けて、勅修霊曾ありしは是なり、蓋是等の諸霊は皆罪なくして憤死し、亡霊怨むる所ありて種々の災害を為すを畏るゝがためなり、又上出雲寺を建て、其修法に與らしむ。後更に藤原廣嗣、菅原道真をも配し八座の御霊と日ふ、旧説八座は井上内親王なく吉備真備を加ふ、其故如何を知らす、今再考するに、三代実録貞観元年出雲井上神授位の事あり、延喜式出雲井於神社あり、名勝志に之を下鴨社内に在りと爲し、神祇志料は其格を本社に充てたり、恐らくは失当ならん、出雲は郷名なれば、彼地蓼倉郷に在る理なし、畢竟するに上御霊の旧名にて、井上内親王を祭ればなり、旧説或は井上内親王の名なし、蓋崇道天皇と同体と見倣したる歟、社記に「初鎭大和國内山」とあるは宇智郡の霊安寺)御霊社なり、井上内親王の山陵此に在り、吉備真備を加ふるは後世のしわざなるべし、倭訓栞に、「八所御霊の其一なる吉備の聖霊をば,旧説吉備大臣真備とするは非也、文武帝の皇女二品吉備,円親王也、
火雷天神は旧説菅原朝臣道真とするも非也、霊安寺縁起に若宮雷とありて、井上内親王宇智郡へ押籠めたて奉りし時、御懐妊にて、彼地に誕生ありし皇子なり」と記せり、
神祇志料に「御霊祠、其一は上京鞍馬口南寺町の西にありて上御霊と云ひ、其一は寺町通丸太町にありて下御霊と云(式社考証)並に光仁天皇皇子崇道天皇、桓武天皇皇子伊豫親王、及御母藤原朝臣吉子、橘朝臣逸勢、文室朝臣宮田麿を祀る(三代実録)蓋皆罪なくして死たるを深く憤り怨みつる神魂鬱結て、自ら種々の災害起りしを以て、朝廷又甚之を恐たりき(類聚国史、日本紀略、続日本紀大意)清和天皇貞観5年5月壬午、是より先疾疫多に起り、百姓多く死るは崇道天皇等五人の霊也と世に称ふるを以て、天下諸國夏秋二時に御霊会を修む、今春疾疫又起りしかば朝廷にも祈り給ひ、此に至て左近衛中將藤原朝臣基経等に勅して、神泉苑に霊座六前を設け、花菓を陳ね、近侍児童良家子弟に歌舞せしめて御霊曾を行ふ、其事極めて盛なりき、7年6月癸亥勅して、御霊曾に託て徒衆を聚め、馬を馳せ、弓を射る事を禁めしむ(三代実録)後世吉備朝臣眞吉備。藤原朝臣廣嗣、菅原朝臣道真を配せ祭て八所御霊と云ふ(諸社根元記、諸神記」とあり、雑談治要に「八所の御霊と申すは。昔謀叛を起して其志を遂げす、或は何事にても恨を含める人の霊を祭られたる社也」と見えたり、本社は代々の天皇崇敬殊に厚く、神殿は内侍所の假殿拝領の上造営せりと、天正13年の造営には都鄙勧化の綸旨を下し賜ひ、各御所よりは、例年正月元日歯固の御初穂寄進あり、宝永7年9月12日、霊元天皇の皇子今宮御誕生あり、翌日御胞衣を当社内神樂所前に納め給ふ、寛政13年正月23日、光格天皇皇子御誕生あり、翌24日御胞衣を稻荷社前に納め給ふ。天保8年正月26日、仁孝天皇の皇女恭宮御誕生あり、翌27日御胞衣を社内長宮の前に納め給ふ、安政5年6月12日、孝明天皇皇女富貴宮御誕生ありて、御胞衣を本社前に納め給ふ、凡て若君御誕生の時は、皇子皇女に拘らす、120日の後御社参あり、霊元天皇は御在位中に両度行幸せられ、御製を奉進ありき、後陽成天皇御水尾天皇御鳳輦を寄進せられ、之を神輿に造り替へ、今に祭典に用ゐらる、明治6年4月郷社と決定、同10年2月10日宮内省より金千圓御寄進あり、同14年6月府社に列す、相殿小倉氏の三神霊はもと三社明神と称し、松木保丸氏の京都の邸内に在りしを、又典侍局若宮及菅原利子の三神霊は、和光明神と称して、勧修寺顕允氏の京都の邸内に在りしを、明治14年10月当社に合祀せり、社殿は、本殿、幣殿、拝殿、絵馬含、假殿、神樂所、神輿庫、社務所等を備ふ、境内2203坪(2142坪、官有地第一種、61坪、民有地第一種)あり。

明治神社誌料



【御霊神社】

御霊神社 ごりょうじんじや
御霊・怨霊神を祀った神社。『三代実録』貞観5年(863)5月20日の条に、「天下以為、此災、御霊之所生也」とあるように、この世に、疫病が流行したり、稲作を妨害する蝗が発生したりするのは、怨みを残して死んだ人々の霊魂(御霊・怨霊)の崇であると信じられた(とくに、奈良時代末から平安時代にかけて、政治的に失脚した貴族の霊)。そこで、このような御霊・怨霊をなだめるために建てられたのが御霊神礼である。つまり、御霊神社は日本人の罪の意識から成立された神社といってよかろう。当社の祭りを御霊会・御霊祭と称し、貞観5年(863)5月20日、京都の神泉苑で行った御霊会が文献的に最も古い。この時の御霊に崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人(吉子)、観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等であった(『三代実録』貞観5年5月の条)。その後、御霊会は各所でさかんに行われ、砥園や北野や紫野などでも行われた、御霊神社で有名なのは、京都の上御霊・下御霊の両社である。前者は単に御霊神社とも称し、京都市上京区上御霊竪町。旧府社、祭神は早良親王・井上内親王・他部親王・火雷天神等を祀る。創立は桓武天皇の頃と伝える。例祭5月20日(以前ば8月18日)。後者の下御霊神社は京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町。旧府社。
祭神は古備聖霊・早良親王・伊豫親王等を祀る。例祭5月20日(以前は8月18日)。
両社とも祭礼は大変な賑わいを見せたが、「御霊祭りで上ばかり」といわれたように、上の方が盛んであった。一般に御霊系神社の祭礼は行列や芸能が伴い、あるいは風流と称す仮装踊りがくり出される場合が多い。
神輿の渡御も激しいしぐさで行われる。つまり、氏神系神社の祭りが静的なのに対して、御霊系神社の祭りは動的であるといえる。祭日も氏神系神社が、2、4、11月に集中しているのに対し、御霊系神社は、5、6、7、8月に集中している。御霊神社は、初め都会を中心に成立したが、次第に地方にも伝播して行った。そして、虫送りや風神送りなどの民間行事などとも結ばれて、御霊信仰はますます盛んとなった。

神社辞典






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