大酒神社
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   【延喜式神名帳】大酒神社 山城国 葛野郡鎮座 元名大辟神

   【現社名】大酒神社
   【住所】京都市右京区太秦蜂岡町30
       北緯35度0分53秒,東経135度42分30秒
   【祭神】秦始皇帝,弓月王,秦酒公
       相殿 兄媛命,弟媛命(呉服女,漢織女)
       秦始皇帝祖神 『広隆寺来由記』
       秦酒公 『神名帳考證』
       安閑天皇の皇子・豊彦王 『神社覈録』
       弓削守屋 『延喜神名式比保古』
       道祖神 『京都の歴史』

   【例祭】
   【社格】旧村社
   【由緒】嘉祥2年(849)9月16日 「奉授山城國葛野郡大辞神從五位下」『続日本後紀』
       天慶4年辛丑(942)5月15日 正三位
       天喜3年乙来(1055)11月20日 正二位
       治暦4年戊申(1068)4月25日 正一位

   【関係氏族】秦氏
   【鎮座地】もとは広隆寺境内、少し北東の現社地へ遷座

   【祭祀対象】大石?
         旧社地に大酒神社があった頃、大石を御神体にしていたとの記録がある。
         明治時代、旧社地(広隆寺境内)から現社地に移った時、所在不明となり消失した。

   【祭祀】継承している
   【社殿】本殿流造

   【境内社】三神の社・八幡社・稲積社・木枯社

古墳時代、伝承として秦始皇帝子孫という功満王(こうまんおう)が戦乱を避け日本に渡来、始皇帝の神霊を勧請したことに始まるという。祭神は、秦始皇帝とされており、秦氏との関連が指摘されている、秦氏ゆかりの広隆寺の鎮守の一つでもある。
延喜式神名帳には、「元名大辟神」とあり、オオサケの神、つまり、悪疫・悪霊を避けるためのものとされいる。
もとは広隆寺内にある桂宮院の鎮守として御堂の背後にあったが明治時代の神仏分離政策に伴い、大酒神社は広隆寺境内から切り離され、少し北東の現社地へ遷座した。
この太秦地区を中心に古代日本の一翼を担った古代氏族・秦氏の総鎮守として、秦氏の人々からこの上ない尊崇を受けていた。


由緒

宗教法人 大酒神社
祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公
相殿 兄媛命、弟媛命(呉服女、漢織女)
神階 正一位、治歴四年四月(1068年)
当社は、延喜式神名帳葛野郡20座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。
「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇8年(356年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。
 后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇14年(372年)百済より127県の民衆18670余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。
数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
 機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。
広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で10月10日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。
 尚、603年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。
 又、大宝元年(701年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和銅4年(713年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。
昭和59年5月

社頭掲示板



牛祭り

【特殊祭礼】京都三大奇祭の1つ「牛祭り」
@摩多羅神(またらしん)という詳細不明の神が、奇天烈な衣装・面を装着して、牛に乗りながら現れる。
A摩多羅神が広隆寺薬師堂前に設けられた祭壇へ行き、そこで意味難解な祭文を奇声をあげながら読む。
B摩多羅神が祭文を読む間、見物者など周りの人たちは、摩多羅神に向って様々な罵声を浴びせる。
C読み終わると、摩多羅神は急に祭壇から薬師堂の中に走り出してしまう。
D中に入ったら、祭り終了。
大酒神社が境内にあった頃までは、大酒神社の執り行なう祭りだった。
秦氏のルーツと目される中央アジア周辺には【ミトラ教】という教えがあり、その最高神であるミトラ神が実は牛の頭を持つ神として伝えられている。そのため、多くの研究家はこの祭りをミトラ教信仰の名残と推察している。



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