橘諸兄の母縣犬養三千代の創建といわれ、古くは橘氏の氏神であった。 橘氏の祖諸兄公の母県犬養三千代が、山城国綴喜郡井出寺の中に橘氏一門の氏神として初めてお祀りしたのが創祀としている。 その後、聖武天皇の妃の光明皇后が之を祀り度々所在を転じた。嵯峨天皇の皇后橘智子(檀林皇后)によって、今の神域に遷し祀られ自ら御幸して、お祭りになったのが有名な梅宮祭りの起源である。 酒解は辟解で悪霊を払う神か。桂川の流れをすぐ近くに控え、祓除いには好適の地を占めている。 造酒の神、お産の神、木の神、交通安全の神として広く信仰されている。 この地は梅津とあるように、桂川の対岸から渡り来る入々の最初の上陸地であつた。 |
梅宮大社 御祭神 (本殿四座)大若子神(瓊々杵尊) 小若子神(彦火々出見尊) 酒解神(大山祇神) 酒解子神(木花咲郡姫命) (相殿四座)嵯峨天皇 仁明天皇 贈太政大臣 橘清友公 橘喜智子(壇林皇后) 御由緒 当社は今から凡そ千三百年前、橘氏の祖諸兄公の母県犬養三千代が、山城国綴喜郡井出寺の中に橘氏一門の氏神として始めてお祀したのであります。 其の後、聖武天皇の妃光明皇后が之を祀り度々所在を転じましたが、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(檀林皇后)によって今の神域に移し祀られ自ら御幸して、お祭りになったのが有名な梅宮祭の起源であります。 其の後、延喜式の名神大社二十二社の中に列せられ、明治四年官幣中社に列せられました。 由緒書 |
梅宮大社 祭神は酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の4座、式内神で二十二社に列し、もと官幣中社であった。 橘諸兄の母県犬養三千代の創建といわれ、古くは橘氏の氏神であった。酒解神(大山祇神)の御子酒解子神(木花咲耶姫神)は大若子神(瓊瓊杵尊)と一夜の契りでやがて小若子神(彦火火出見尊)をお生みになった。 そこで姫は歓喜して狭名田の稲を取って天甘酒を造り、これを飲まれたという神話から当社は安産と造酒の神として古くから有名である。 現在本殿、拝殿、幣殿、回廊、中門などがあるが、これらは元禄十三年(1700)の再建になるものである。境内には大堰川の水がひかれ、池辺にはかきつばたや花菖蒲が多くあり、西方の梅林も美しい。 また境内の砂は安産の民間信仰があり「またげ石」はこれを跨げば子どもが授かると伝えられる。 社頭掲示板 |
御由緒 当社は今から凡そ1300年前、橘氏の祖・諸兄(モロエ)公の母、県犬養三千代(アガタイヌカイミチヨ)が、橘氏一門の氏神として始めてお祀りした神社です。その鎮座の地は山城国相楽郡井出庄(ヤマシロノクニソウラクグンイデノショウ)すなわち、今の綴喜群井出町付近であったと伝えられています。 其の後、天平宝字年中、千二百五十年ばかり前に、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂〔ムチマロ)夫人の牟婁(ムロ)女王が奈良の都に御遷座になり、更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(タチバナノカチコ<檀林皇后>)によって現在の地に遷しまつられました。 当時、皇后は親しく行啓して盛大な祭儀を行われましたが、神前で雅楽が奉納されましたことは、此の時を最初の例とし以来、梅宮祭は四月上の酉の日に行われ、雅楽祭の名を高めました。 仁明(ニンミョウ)天皇は、1150年ばかり前、承和年中にこの祭を特に名神祭という国家の主要な神祭の中にお加えになり、醍醐天皇の御代に定められました延喜式(エンギシキ)では、国家の制度にのっとり、名神大社というもっとも高い格式に置き、祈年祭(トシゴイマツリ)・月次祭(ツキナミサイ)・新嘗祭(ニイナメサイ)には朝廷からの幣帛(ヘイハク)を新饌台(シンセンダイ)の上に載せて奉るという、案上の官幣と呼ばれる最高の儀礼をもってまつられることになりました。 更に日本中で特選された二十二の大社の中に加えられ、明治の初めには官弊社に列せられました。 相殿四座がおまつられになりましたのは、文徳(モントク)天皇の仁寿年中で、1100年ばかり前のことです。 代々橘氏の長者がお仕へしていましたが、県犬養三千代夫人が橘氏の祖でありますと共に、藤原不比等公の夫人となられました御関係から、藤原氏の摂政又は関白の家筋の方が橘氏長者を代行され、此の神社に藤原氏の氏神の春日神社と同様の崇敬を捧げられました。 このように橘氏は橘・藤原の二氏が長者となりましたので、特に此の氏(橘氏)に限って長者の事を是定(ゼジョウ)と呼ばれていました。もって橘氏の家格の尊さと梅宮大社の神威の偉大さがうかがわれます。 HP由緒 |