梅宮大社
うめのみやたいしゃ


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【祭神】

『大和豊秋津嶋ト定記』では酒解社の祭神を大山祇神、酒解子神社の祭神を木花開耶姫、若子宮の祭神を瓊々杵尊、そして小若子社の祭神を彦火々出見尊としている。
『二十二社本縁』には、当社の祭神として橘諸兄の名を挙げている。
酒解は辟解で悪霊を払う神の意。桂川の流れをすぐ近くに控え、祓除いには好適の地と考えられる。伊邪那岐尊が祓除ひによつて多くの神々を化生したという神話を考えるとき、瓊々杵尊の子を一夜にして孕んだと語られている木花開耶姫を酒解子神に仮託して伝えられていることも理解できる。
酒解子神をはじめとして、大若子神・小若子神と多くの子神を奉祭していることも、祓除い→神々の化生という神話的発想によつたものであり、それが橘嘉智子の平産伝承に代表されるような安産の神として、今日まで、この社が深い信仰を伝えてきたものと思われる。酒解神は、あるいは境解神で、悪霊を鎭める神であろうか。地境は外来者にとり悪霊の住む場所として古代人に怖れられていたが、当社の地は梅津とあるように、桂川の対岸から渡り来る入々の最初の上陸地であつた。


【橘氏との関わり】

皇后橘嘉智子(檀林皇后)は嵯峨天皇との間に太子に恵まれなかつたゝめ、酒解二社に祈つたところ仁明天皇が生誕し、その結果、仁明天皇の嘉祥年中(848〜51)に、外祖父の橘清友を酒解社に、嘉智子を酒解子神社に、瓊々杵尊・彦火々出見尊を若子二社に配し、もつて橘氏の祖廟となしたとある。


【桜 祭(雅楽祭)】

4月第3日曜日 祭典 
 平安時代、名神大社に列せられた梅宮の例大祭は、勅使祭であり、祭礼に雅楽が奏された最初の祭であり、又、新酒を供えた祭りでもあった。
その昔を偲んで、平成8年に平安雅楽会の協力を得て復活した大祭である。
行事として祭礼後、平安雅楽会により雅楽と舞楽が奉納される。さらに神酒が無料接待される。
梅宮大社

梅宮大社 うめのみやたいしや
京都市右京区梅津フケノ川。旧官幣中社(現、単立神社)。祭神は、酒解神・大若子神・小若子神・酒解子神の四座を主祭神とし、嵯峨天皇・仁明天皇(嵯峨天皇々子・母檀林皇后)・檀林皇后(橘嘉智子・嵯峨天皇々后)・橘清友(檀林皇后の父)を配祀している。創建の初めは、県犬養三千代(橘諸兄・光明皇后の母)が奉祀していたのを、のちに山城国相楽郡(京都府綴喜郡井手町)のかせ山円提寺に移し、仁明天皇(833−50)の時代に壇林皇后が現在の社地に社殿を造営したと伝えられている。祭神の酒解神に対して承和3年(836)に従五位上を、大若子・小若子両神に従五位下の叙位があってのち、漸次累進して、貞観元年(859)には四座ともに正四位に昇り、延喜11年(911)に正三位となった。また『延喜式』によれば名神大社に列格し、月次・新嘗・祈年の各祭には案上の官幣にあずかった。このほか平安時代のいわゆる「二二社奉幣」には下八社の一社としての殊遇をうけた、配祀の四座は仁寿年問(851−54)に奉祀されたと伝えられている。敏達天皇五世の孫美努王に嫁した県犬養三千代(のち藤原不比等の妻、光明皇后を生む)が橘宿根姓を賜わり、子の葛城王は臣籍降下して橘諸兄となって権勢をふるったが、子孫の橘逸勢の「承和の変」以後、名族の橘氏は急速に没落していった。従って両氏の氏神祭である「梅宮祭」(もとは4月上申日・11月上卯日)に何度か興廃のあとをとどめ、後には橘氏と関係深い藤原氏がその任にあたった。例祭4月3日。他に神幸祭(5月3日)のほか春秋(5月・11月)には祭神にゆかりのある酒醸奉賽・祈願の祭典があり、檀林皇后が安産を祈願して仁明天皇を得たとして安産の神とも尊崇されている。神苑は菖蒲園としても名高い。なお本殿左右に若宮社(伊弉諾尊・左大臣橋諸兄)、護王社(右大臣橘氏公)など、橘氏一族を祭神とする摂社がある。

神社辞典



梅宮坐神四座 並名神大月次新嘗

梅宮は宇女乃美也と訓べし○祭神酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神、○西梅津村に在す、(山城志)例祭 月 日○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、山城國梅宮神社四座、○江家次第云、祈年穀奉幣、梅宮(橘氏五位)」廿二社注式云、(下八社)梅宮(使橘氏五位一人、幣四前)豊秋津島卜定記云、帝居乃末中仁当天、第三乃瓊々杵乃后宮木花開耶姫神、同父大山祇並仁、瓊々杵火々出見乃神達鎮仁守利玉布、其誓常仁婦乃産仁最悪木事於愍玉天、偏仁如此人乎助玉利、彼開耶姫和酒解子神社奈利、大山祇和酒解社也、瓊々杵和今乃若子宮奈利、小若子社古曽火々出見尊仁天渡世玉也、とあるは、平野社の四座を云々といふと同じ僻言也、」廿一社記云、梅宮社、井手左大臣橘諸兄ノ霊也、云々、、仍至于今橘家長者官領也、(廿二社本縁同)又云、檀林皇后立奉宮社奉崇之事在、と云るも後に起こる説也、」名勝志云、社記云、嵯峨天皇勅為親王、時、納橘氏韓(嘉智子)為夫人、後立為皇后、無太子、因茲皇后憑神代幽契、祈梅宮祠、即感応有妊孕、遂以当宮清砂敷御座下居ニ其上生児、所謂仁明天皇是也、至文徳天皇如神代併祭、是相伝之神也、と云るは、旧ぎ伝へのある事なるべし、抑当社を橘氏の祖神と申すは、三代實録、元慶3年11月6日辛酉の條に、梅宮祠者、仁明天皇母、文徳天皇祖母、太后橘氏之神也、(全文祭祀の條に引り)と云るぞ起本なる、(頭注云、梅宮、仁明帝母、太皇太后橘嘉智子也、橘姓神也とあるは、疎漏に書れしなるべし、)按るに姓氏録、(左京皇別上)橘朝臣、敏達天皇子難波皇子男贈從二位粟隈王男、治部卿從四位下美努正、娶從四位下縣犬養宿禰東人女正一位縣犬養橘三千代大夫人、生左大臣諸兄、云々、和銅元年11月己卯、大嘗會、25日癸未、曲宴、賜橘宿禰姓於大夫人、天平8年12月甲子、詔参議從三位行左大弁葛城王、賜橘宿禰、(諸兄初名號葛城王)とあれば、橘氏の始祖は諸兄公にして、酒解等の神には拘はらねども、故有て当社相殿に諸兄公の霊を祭り、橘氏の神社とせしが、竟に相殿のかた主となりて、元よりの四座は然のみ聞え給はず、共に橘氏の祖神とのみなれるも、橘氏の時勢によれるならん、」三僧記第十云、入道兵部卿云、橘氏ノ氏神ナリ、但此モ社務ハ昔親王ナリ、親王御座マサデ、後橘氏氏人ニ被付ケルニ、以長(以政父)ガ我許社務ハ叶ハジトテ、寄進字治入道殿、其後永一所ニ付テ御沙汰アリ、云々、』年中行事歌合に、「神まつる卯月の神をりそへて梅の宮居にたつる御幣、」判詞云、梅の宮はもろ兄公をいはひたる趾なれば、橘氏の祖神なるべしといひ、前に引る廿二社記等も同社なるは、本を失ひたるもの也、○是定の事は、公事根源云、是定といひて、摂家の人の管領する社にて侍るにや、抑此是定の、一の人の家につたはりし事は、橘氏の公卿絶えて後、正月5日の叙位に、氏の爵の事を行ふべき人なきによりて、寛和の頃、中関白道隆、大納言と令申侍りし時、宣旨をかうぶり給ひて、氏の爵の事を申し行ひ侍りし也、中關白、粟田關白、御当関白、此三人の母は、摂津守藤原中正といひし人のむずめ也、かの中正の室は、中納言橘澄清卿のむすめ也、中関白には外祖母也、かやうの由緒侍るによりて、是定は藤氏の家に相伝し侍るとかや、」
神位 名神
続日本後紀、承知3年11月壬申、奉授無位酒解神從五位上、無位大若子神、小若子神、並從五位下、此三前坐山城國葛野郡梅営社、同10年4月己未、坐梅宮、従五位上酒解神、從五位下大若子神、從五位下小若子神三前、奉授從四位下、並預名神、同年5月辛亥、奉授従五位下酒解子神、從四位下、同年10月壬申、梅宮從四位下酒解子神一前、預之名神、」三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授正四位下大若子命、小若子命、酒解神、酒解子神等、竝正四位上、同17年5月14日乙未、梅宮正四位上大若子神、小若子神、酒解神、酒解子神、並授從三位、」日本紀略、延喜11年2月2日、詔授梅宮坐梅宮神正三位、」廿二社注式云、治承4年12月、正一位、
官幣
三代実録、貞観12年11月17日乙丑、分遣支社諸社奉鋳銭司及葛野鋳銭所新鋳銭、梅宮社使大監物從五位下橘朝臣茂生、同14年3月23日癸巳、今春以後、内外頻見怪異、由是各遣使者諸神社、奉幣、参議正四位下行右兵衛督兼近江守源朝臣勤為梅宮社使、元慶2年3月9日乙巳、是日分遣使者、奉幣馬於梅宮社、
造営
新後拾遺集、(神代)梅宮立柱の日よめる、権少僧都慶有、さらにまた花さく梅の宮はしらたててぞ千世のさかえをもみむ`
雑事
三代実録、貞観2年11月17日乙丑、是日分遣使者諸社、奉鋳銭司及葛野鋳銭所新鋳銭、梅宮使橘朝臣茂生、

神社覈録






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