当社は京都最古の神社で、太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って、生活守護神としたのが起源と思われる。 祭神が降臨したという日尾(埼)は松尾山の大杉谷を上つた頂上にあり、御神蹟と称する磐座が現存する。社殿祭祀以前に当社の神を祀っていた所である。 五世紀の頃、朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、山城・丹波の両国を開拓し河川を治めて農林産業を興した。同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、文武天皇の大宝元年(701年)には、山麓の現在地に社殿が創建された。 平安京遷都ののちは、王城鎮護の神として崇められた。 当社は、「酒の神」として有名で、各地に、松尾神社として勧請されている。 松尾山を背景に室町時代に建造された松尾造りと呼ばれる本殿(重文)のほか、拝殿、釣殿などの社殿が建ち並び、古くから水の神、醸造の神とし信仰を集めていることから、境内には酒造家から寄進された薦被りが並んでいる。 松尾神社に関しての著作物は多く発行されており、研究資料も多い。 |
松尾さん 当社は京都最古の神社で、太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って、生活守護神としたのが起源といわれます。 五世紀の頃朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、山城・丹波の両国を開拓し、河川を治めて、農産林業を興しました。同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、文武天皇の大宝元年(701)には山麓の現在地に社殿を造営されました。 都を奈良から長岡京、平安京に遷されたのも秦氏の富と力によるものとされています。従って平安時代当社に対する皇室のご崇敬は究めて厚く、行幸数十度に及び、正一位の神階を受けられ、名神大社、二十二社に列せられ、賀茂両社と並んで皇城鎮護の社とされました。室町末期までは、全国十数ケ所の荘園、江戸時代にも朱印地1,200石、嵐山一帯の山林を有していました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
松尾大社 [秦氏来住] 五・六世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。 [秦氏の開拓] 伝説によると…… ……「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。」…… と申すのも、秦氏がこの大山咋神のご神威を仰ぎつつ、この地方一帯の開拓に当たったことを示すものと言えます。 [大堰と用水路] また秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられております。 その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地内を通っております。 [酒造神] 農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになったようです。 酒造については秦一族の特技とされ、桂川に堤防を築き、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できます。 室町時代末期以降、当松尾大社が「日本第一酒造神」と仰がれ給う由来はここにあります。 公式HP |
松尾大社 大山咋神と市杵島姫命の二神を祀る。 大宝元年(701)秦忌寸都理が、松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請し、当地に社殿を建立したのが起りと伝え、平安時代には皇城鎮護の神として、また中世以降は醸造の神として人々の信仰を集めている。 本殿(重要文化財)は「松尾造り」と呼ばれる珍しい建築で、天文11年(1542)に改築されたものである。 宝物としては、等身大の男神坐像ニ体、女神坐像一体(ともに重要文化財)を有する。 毎年4月に行われる松尾祭には、神輿の船渡御があり、多くの人々で賑う。 社頭掲示板 |